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足音も荒く、香穂子は練習室を後にしていた。
三日後の教会コンサートへ向けて、みんなで揃ってアンサンブルの練習をする前に、一人おさらいの意味で練習室で、一つ一つの音を意識しながら弓を引いていた。
そこへ突然割り込んできた声。
突然だったことにまず驚いて声が出なかった。
振り返った先には、見たことのない男の子。私服だったせいで年がよくわからなかった。年下に見えたが、その次の態度は年下のものではなかったからだ。
香穂子のことを見下した物言い。香穂子だけではなく、この学院全体を見下すような言い方。いや、そう言わしめたのは、香穂子の演奏のせいだろう。そういう言い方だった。
その言葉の内容にあっけにとられて、またも何も言えなかった。
何も返せないでいるうちに、その男の子は練習室を出て行った。
とんでもなく失礼な言葉を残して。
その言葉を認識するのに従って、ふつふつと香穂子の中に怒りが生まれてきた。
(何あれ、何よ、あの子何なのよ―――!!!)
額を全開にして、アンサンブルメンバーの元へたどり着いたときには、息も荒くなっていた。
「さっ! 練習しましょう!!」
香穂子の剣幕に、冬海が気圧されている。
「日野さん、どうしたの?」
宥める意味があるのだろう。穏やかな声で柚木が香穂子に問いかける。
「何でもないですっ」
まだ憤りを抑えられないので、語気も荒いままだ。
だから、この憤りを抑えたくて、早く演奏をしたいのだ。ヴァイオリンを奏でれば、この荒れた気持ちは落ち着くだろうと思うから。
「だめだよ、日野さん。気持ちを落ち着けてからじゃないと」
まっとうなことを言ったのは加地だ。
柚木も加地も柔らかく微笑んで香穂子のことを見ている。二人の笑顔を見ていたら、気持ちを荒げているのがなんだかばからしくなってくる。
けれど、あんなことを言われた怒りはそんな簡単には収まらない。収めてはならないのだ。
だって、あの子は、香穂子を、ひいては星奏学院を馬鹿にした。
毎日、一生懸命音楽に向き合っている彼らを馬鹿にした。
そして、更に腹が立つのは、それが香穂子の音を聴いたせいである、ということ。
香穂子自身、自分の音が胸を張ってどこにでも出て行けるほどのものでないということくらいは認識している。学内コンクールへ出たのはとんでもない経緯からだったけれど、その後、香穂子はヴァイオリンを好きになったし、今は好きで毎日練習を重ねている。月森や土浦になど到底及ばないのもわかっているし、どちらかと言えば下手の横好きだ。
わかっている。
香穂子には技量がまだ足りない。好きで弾いているだけではだめなのだとわかっている。
だからこそ、アンサンブルに参加しようと思ったのは、そんな自分がどこまでやれるかを試してみたかったのだ。
それなのに―――。
香穂子の憤りの理由を聞いた三人は、三者三様の怒りを見せた。
冬海はまず絶句して、それから肩を震わせた。目に涙が浮かんでいる。
「ひ、ひどい………そ、そんなこと、言うなんて、ひどすぎます………」
声まで震えていた。
柚木も眉を顰めている。
「そんなことを言うなんて、信じられないね。そこまで言うからには、よほど自分に自信があるんだろうね」
「日野さん、気にしなくていいよ」
いち早く怒りから立ち直ったのは、香穂子ではなく加地だった。もう笑顔が浮かんでいる。
「その子は、日野さんの素敵なところに気がつかなかったんだ。あの音色を聴いて、それくらいのことしか言えないなんて、むしろ残念だよ。わからない子供にわかって貰う必要なんてない。日野さんの音色は僕の世界を変えた音なんだから。そんな子の一言に惑わされることなんてないよ」
「加地くん………」
加地の言葉は、聴いていて照れる。
だが、ほほえみを浮かべたくなるほどには、心が落ち着いた。
「ありがと」
加地の言葉をすべて真正面から受け取って、自信に変えることは出来ない。加地は加地で香穂子のことを褒めすぎる。
あの男の子が言ったことをすべて否定することももちろん出来ない。
だから、香穂子が今できることは、目の前の音楽を精一杯奏でるだけ。
そしていつか、あの男の子にまた出会ったときに、恥ずかしくない演奏を出来るように―――。
「ごめんね。もう復活したから! 練習しよう」
そう言って真っ先に香穂子はヴァイオリンを構えた。
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