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昼休みの売店。
それは冬海笙子にとって苦手な場所の一つだった。
以前、シャープペンの芯を買いに来て、結局その人混みに恐れをなして引き返したこともある。
もともと気の弱い笙子のこと。人だかりをかき分けて自分の目的を達成することなど、到底出来そうにもない。ましてや、この時間の売店は殺気立ってもいる。
笙子は自分でも気づかないうちに深くため息をついていた。
本当は、このまま踵を返してしまいたい。だが、そういうわけにもいかない。シャープペンの芯ならば放課後でも良かったが、今回は今でなければならない。
弁当を、忘れてきてしまったのだ。ここで食べるものを手に入れなければ、昼食抜きということになる。この後、午後の授業を受け、コンクールに備えて練習をしてから帰路につく。夕飯を食べるのは七時を過ぎたころになるので、都合七時間近く空腹に耐えなければならない。
それは、とても無理な気がする。
(………でも、我慢、しようかな………)
売店の喧噪を見ているうちに、そんな考えが頭を過ぎる。
「何、ぼーっと突っ立ってんだ」
不意に掛けられた低い声に、笙子は「きゃっ」と短く声を上げる。
「……………そんなにびびることないだろう」
「すっ、すみませんっっ」
反射的に笙子が謝った相手は、土浦梁太郎だった。
同じコンクールに参加することになった、普通科の二年生。見た目からは想像も出来ないが、ピアノを弾く。情熱的、と言えばいいのだろうか。ひどく熱の籠もった音を出す。強い感情が顕わになった音。
笙子はそれほど身長が低いわけではなかったが、土浦を見るときには見上げる必要がある。
だが、笙子はあまり土浦を直視できない。
怖いのである。
とても失礼だとは思うが、こればかりはどうしようもない。
笙子が見るときはいつも眉間に皺が寄っているし、そのせいか怒っているように見える。声も低いから、ますますそんな印象だ。だから、別に怒られていないのに怒られているような錯覚に陥って、意味もなく謝ってしまう。
「んで? 何でそんなところに突っ立ってたんだ。売店に用があるんじゃないのか?」
「あ、あのっ、いえ、その………」
ちゃんと話さなければと思えば思うほど緊張してしまう。そして上手く話せないことが相手を怒らせるのではないかという懸念が、更に笙子の口を重くさせる。
「昼メシか?」
「えと、あの………」
「そんなにおどおどするなよ。俺がいじめてるみたいだろうが」
「ご、ごめんなさ………」
「だから、悪くもないのにいちいち謝るな」
またごめんなさい、と言いかけて笙子は慌てて口を噤んだ。
「お前、もうちょっと自分に自信を持ったほうがいいと思うぞ。卑屈になる理由なんてどこにもないだろう。そんなだと、いつまで経っても軽く見られるぞ。…………と、悪い。言い過ぎた」
「………い、いえ……」
否定はしたものの、笙子の声はか細い。とても否定しているようには聞こえないだろう。
土浦は、身を竦めて俯いてしまった笙子を見下ろしながら、自分の後頭部をがしがしとかき回す。何か別の言葉を掛けようとして、口を開いたが結局何も言わないまま閉じてしまう。そして、笙子が竦んだまま微動だにしないので諦めたように一つ息をつくと、踵を返した。
喧噪の中で、土浦が去っていく靴の音が耳に届かなくなるまで、笙子はそのまま動かずにいた。
「……………はぁ……」
知らない間に息を詰めていた。それを一気に吐き出すと、更に気持ちが落ち込んだ。
土浦に言われなくても、自分で嫌になるくらい卑屈になっているとわかっていた。第一セレクションで三位という成績を収めたにもかかわらず、笙子は自分の演奏に自信が持てない。
クラリネットを奏でることは好きだ。それは昔から変わらない。だが、それだけで良かったのだ。こんな、ただ妖精が見えるだけで選ばれてしまうような、コンクールに出たくはなかった。
自分が特別だなんて思っていない。でも、コンクールに選ばれるのは特別なこと。それを妬む人があからさまな敵意を向けてくることも少なからずある。
笙子の意志で参加するわけではないのに………。
どん、と笙子の肩に誰かがぶつかった。
「あ、ごめん」
男の人の声だった。もちろん誰かは知らないが、俯いていた笙子の視界に明るい色のズボンが見えたから、普通科の生徒であることはわかった。その足も、さっさと笙子の視界から消えてしまう。
「ご、ごめんなさいっ」
去っていってしまったであろう人に慌てて頭を下げて、笙子はその場から離れることにした。
食欲など、とっくに無くなっていた。
「おい、冬海!」
普通科のエントランスを出ようとしたところで、大声で名前を呼ばれた。近くを歩いていた人たちがさっと振り返る気配に、顔を真っ赤にする。
「メシ、食うんだろう?」
力強い手が、笙子の細い肩を掴む。思わず息を呑んだ。
それが相手にも伝わったのだろう。肩を掴んだ手はすぐにそこから離れる。
「ほら。適当に買ってきた」
思いがけない言葉に、笙子は顔を上げた。目の前の人の顔をきょとんと見つめる。
「何だ」
不機嫌さを隠そうともしないで、土浦が笙子を見下ろしていた。
「ほら。何が好きかとかはわからなかったからな。我慢して食えよ」
そう言って、土浦はパンの袋を三つとパックの牛乳を笙子に押しつけた。
「え、えと………あの………」
押しつけられるままにそれらを抱えた笙子の視線は、土浦から動かない。
「どうせ、人だかりに怯んで近寄れなかったんだろう。そんなに気弱でどうするんだ。セレクションっていう大舞台であんなに清々しい音を出すくせに、どうしてこうパンを買うくらいで怯んでるんだ」
もっと思いがけない言葉に、ただ目を丸くするのみだ。
「じゃあな」
何の反応も出来ずにいる笙子を置いて、土浦はその場を去っていく。
「あ………」
その背中がエントランスの階段を上って、見えなくなってしまうまで笙子はぼんやりと見送っていた。
「駄目だな、私。お礼、言いそびれちゃった………」
腕の中にあるのは、タマゴサンドとクリームパンとコロネ。そして牛乳。
パン三つは笙子の昼食にしては多すぎるが、今更突っ返すことも出来ない。それにせっかくの親切だった。
親切。
笙子のためを思って、わざわざ自分のものを買うついでに、笙子の分も買ってきてくれた土浦。
(本当は、優しい人………?)
たたきつけられるような土浦のピアノの音が時々怖いことがある。笑っているところを見たことがないその表情が怖いと思う。
だけど、本当は怖いだけの人ではないのかもしれない。
それにちゃんと笙子の音を聴いていた。
セレクションに参加する以上、他の参加者のことを注視しておくのは当たり前だが、清々しいなんて評価をして貰えるなんて思ってもいなかった。
そういう言葉を貰えるのは、やっぱり嬉しいとそう思う。
ふわり、と笙子の口元に笑みが浮かぶ。
売店へやってきたときとは違う軽い足取りで、笙子はエントランスを出ようとして、また足を止めた。
「あ………私、お金………払ってない………」
今更ながらにそんなことを気づいて慌てた。
追いかけて、代金を払うべきだと思ったが、普通科の校舎の中を土浦の姿を探して回るなんて、出来そうにない。放課後、練習しているのを見つけて探す方がまだましだろう。それに、ピアノは音楽室か練習室にしかないのだから、自然と探す場所は限られている。
土浦の指からはじき出される音はすぐにわかる。それを頼りにすればすぐに行き当たるだろう。
腕の中のものを抱え直し、笙子は今度こそエントランスから足を踏み出した。
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