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今日はは少し肌寒いな、と思った月曜日の朝のことだった。
誰も足を止めることがない朝の正門前で海笙子の足を止めたのは、花壇の花たちだった。
先週末に見た花と違う。植え替えられていた。
新しい花々は笙子の目を楽しませてくれる。いつも綺麗に整えられている花壇を見るのが冬海は好きだ。見つめているだけで、心が穏やかになっていくのがわかる。それだけで幸せな気持ちになる。
「綺麗………」
小さな呟きは誰にも聞こえない。もちろん誰かに聞かせるつもりもなかったのだから構わない。
「どうかしたの?」
花を見つめることに没頭していたので、背後から声を掛けられてびっくりした。
だが、声に覚えがあったので、微笑みながら振り返る。
「おはよう、志水君」
そこにはチェロのケースを抱えた上に、片手にハードカバーの本を開いている志水が首を傾げて立っていた。いつものことながら器用だと思う。どうやって本のページをめくるのだろう。今度、時間があるときにそれを聞いてみたい。
「おはよう、冬海さん」
志水は丁寧に挨拶を返してくれた。
「花を見ていたの」
「花」
「うん」
笙子が少し身体をずらすと、志水は花壇に目を向けた。
「綺麗だね」
「うん」
会話はそこで途切れる。
でも、志水とならそれで構わないと思える。無理に言葉を交わさなくとも、居心地の悪さを覚えたりしない。不思議だ。他の人だったら、何か話さなくちゃ、と焦ったりするのに。
「おっはよう、冬海ちゃん、志水君!」
二人の間に新たに割って入った声は、天羽だった。その後ろから香穂子も顔を見せる。
「おはようございます。菜美先輩、香穂先輩」
「二人揃ってどうしたの? なんか気になることでもあったの?」
笙子と志水の背後にあるものを見ようと、肩越しに覗き込まれながら笙子は志水にした返事を少し丁寧な言い方に変えて、伝えた。
「あ、ほんとだ」
「なんだか、冬海ちゃんのイメージにぴったりな感じだね」
そう言ったのは香穂子で、笙子はびっくりして香穂子の顔をまじまじと見つめてしまう。
香穂子の発言に驚いたのは笙子だけではなく、天羽も志水もだったようで(志水が驚いているかどうかはその表情からはわからなかったが)、揃って香穂子の顔を見ている。
「あれ? わたし、何か変な発言した?」
「………や、変じゃないけど………花束ならともかく、花壇のイメージがどうこうってあんまり聞いたことないなーって思っただけだから」
「そうだっけ? でも、そう思ったんだよ。もしかして、ここの花壇を管理してる人は冬海ちゃんがお花が好きなのを知ってて、冬海ちゃんを喜ばせようとやったのかもしれないし」
「その発想は飛びすぎでしょ」
香穂子と天羽のやりとりを聞きながら、笙子は笑みが浮かんでくるのを抑えられなかった。
嬉しかったのだ。
香穂子が笙子のことをそういうふうに見てくれたことが。
この花壇を見る度に、香穂子が言ってくれたことを思い出して、嬉しくて微笑んでしまう自分を容易に想像できた。
だから、その翌朝、登校時に花壇を見たときのショックは大きかった。一瞬にして血の気が引き、顔が青ざめてしまったほどだ。
花壇の変貌に、昨日と違って足を止めた人が数人いた。笙子はその人の輪の一番外に立ち尽くしていた。目だけは花壇に向いている。向いている、というよりそこから逸らせなかったのだ。
見たくないのに、逸らせない。
「ひどい………」
その一言は殆ど堪えた涙に飲まれていた。
笙子の視線の先にあるのは、文字通り踏みにじられ、見るも無惨な姿となった花壇だった。まだ綺麗な花を付けている茎は折れ、あらぬ方向を向いている。葉は千切れて、土にまみれている。
自然災害などではない。人為的に、やられたことなのだ。
誰かが。
事故なのか、故意なのかはわからないけれども。
それはまるで、香穂子の言葉やそれにこめられた気持ち、笙子の嬉しかった気持ち、何より笙子自身を踏みつぶされたかのようで―――。
「何があったの?」
不意に掛けられた声に、気が緩んだ。
目に溜まっていた涙をポロポロと落としながら、笙子は振り返る。
「冬海ちゃん! どうしたの!?」
泣いている笙子に香穂子が慌てている。
「か、花壇が………」
それだけを言うので精一杯だったし、それだけで香穂子は花壇を見て状況を把握してくれた。
「酷い………! 誰が、こんなこと!」
そこには強い怒りが込められていた。益々涙がこぼれ落ちてくる。
「大丈夫? 冬海ちゃん………」
顔を覆って泣き出した笙子に、香穂子は一旦怒りを抑えたようだ。代わりに、優しく笙子の肩を抱いてくれる。
香穂子の優しい仕草は、笙子の涙を増やすだけで止めてはくれなかった。泣き止まなくてはならない、そうしないと香穂子を困らせるとわかっていても、笙子は涙を止める術がわからなかった。
花壇が荒らされていたことは一部でちょっとした話題になっただけで終わった。昼休みにはもう綺麗にならされていて、花が一つも植わっていないことだけが、朝の事件を思わせた。
だが、笙子の中では終わったことにはなっていない。
花壇に一つも花がないことをが、余計に辛い。
ショックと悲しみはまだ笙子の中に残っている。
そう簡単に忘れられるものではない。
それは、香穂子も同じようで、天羽と共に犯人を捜すのだと息巻いていた。香穂子のその気持ちは嬉しかったけれども、笙子の気持ちはそれで晴れることはなかった。
きっと、花壇が元通りになっても、すっきりすることはないと思う。
事実、その翌日の朝にはまた花壇は事件があったこと自体を忘れさせるかのように整えられていたが、花が綺麗なことにはホッとしたものの、香穂子が笙子のようだと言ってくれた花壇を初めて見たときのような気持ちにはもうなれなかったし、当たり前のことだが同じ花壇ではないとわかっているから、事件をなかったことにも出来なかった。
この花壇を見る度に、思い出してしまうから。香穂子が言ってくれた嬉しい言葉だけではなく、無残な姿になっていた花たちも。
花を見ているのに、こんなに憂鬱な気持ちになったのは初めてで、どうしたらいいのかわからない。このまま、気持ちは晴れないままなのかと不安にもなった。
それは音色にそのまま表れた。
不安定な音は授業でも注意されたし、オーケストラ部でも指摘された。駄目だとわかっていても、気持ちはどうしようもなかった。
「冬海ちゃん、無理はしなくていいよ」
笙子の調子が悪い理由を知っている火原は優しい言葉をかけてくれるが、そういう気遣いをさせてしまうことを申し訳なく思っても、それでも浮上できない。
こんなに引きずってしまう自分が嫌だったが、どうしたらいいのかもわからない。曖昧に笑って返すことしか、笙子にはできなかった。それが余計に火原を心配させることになっていても。
重く感じる鞄を下げて、それより重い気持ちを抱いて、足取りも重く、笙子は正門への道を歩いた。花壇を見たくなければ、北門を通るという方法もあるのだが、便がいいのは正門のほうなので、やはりこちらへ歩いてきてしまう。
見たくないのなら、視線を向けなければいいのに、つい見てしまう。
そして見てしまった。
抑え込んだ笑い声を出しながら、花壇の中にいる男子生徒二人の人影を。モスグリーンの上着は普通科の生徒であることを示している。その笑いは下卑ていて、それは吐き気を催すほどの嫌悪感をもたらした。
花壇を荒らす、そんな人がいることが信じられない。だが、それは紛れもなく事実。
(止めないと………)
そう思った途端、膝が震え始めた。立っているのがやっとだ。
怖い。
花壇を、笑いながら荒らすような行いをする人間が。
(誰か………)
気がつけば周囲に人の姿を捜していた。だが、誰一人見当たらない。正門前だというのに、笙子以外に誰も通りかからない。もちろん、花壇を荒らしている二人は周囲に誰もいないことを確認してやっているのだろう。
自分以外、誰もいない。
(わたしが………止めないと………)
心臓が痛みを伴って大きな音を立て始めた。息が苦しい。
「あ………」
喉の奥から絞り出した声は、掠れていて自分にもよく聞こえなかった。
早くしないと、花壇の花たちはまた全て手折られてしまう。そんな悲しいことになるのを黙って見過ごすわけにはいかない。
「あ、あのっ」
体中の力を総動員して、声を出した。
花壇と笙子の距離は約五十メートル。笙子の声はその距離を超えた。
「あ?」
花壇の中にいる男子生徒が笑いを引っ込めて、胡乱な視線を揃って笙子のほうへと向けた。そこにいるのが笙子だけだと見て取ると、また口元には歪んだ笑いを浮かべ、いったんは止まっていた足を動かし始めた。
笙子のことなど取るに足らない存在だと判断したようだ。
涙が浮かんできた。
それには悲しみと、それ以上に悔しさが滲んでいた。
何も出来ない、役に立たないと思い知らされて。
「何やってんだよ、お前ら!!」
荒々しい声が飛んでくるまで、誰かが正門前にやってきたことに気がつかなかった。
その低くて凄みのある声は花壇まで届き、尚かつ、花壇の二人をそこから立ち退かせた。
「土浦、先輩」
今度は涙で掠れた声で、その名を呼ぶ。
土浦は笙子の横を擦り抜ける際に、慰めるように軽く笙子の頭を叩いて、ずんずんと花壇のほうへ歩み寄っていく。その勢いに花壇に入っていた二人は気圧されたかのように後ずさる。
「何してんだって聞いてるんだよ」
「な、何もしてねぇよ!!」
言うやいなや、二人は身を翻して正門から走り去ってしまう。
「二度とこんなことするんじゃねぇぞ!! 顔は覚えたからな!!」
土浦の声が後を追う。それはしっかりとあの二人に届いたと思う。人のいない正門前に響き渡っていたから。
「大丈夫だったか?」
逃げた二人の姿が完全に見えなくなってから、土浦は笙子を振り返った。
「果敢に立ち向かおうとしたのは認めるけど、あんまり誉められたことじゃないな。冬海には無理だろう」
「そういう言い方はないんじゃない? 冬海ちゃんだって頑張ったんだよ」
別の声が割って入ってきて、その場にはいつの間にか笙子だけじゃなくなっていたことを知る。
「香穂先輩」
香穂子が笙子の横に並んだ。
「怖かったよね。よく頑張ったね」
ぎゅうっと、笙子の身体を抱き締めてくれる。また涙が溢れてきた。
「冬海はお前みたいに勇猛果敢じゃないからな。人には向き不向きというものがある」
「それって、わたしにも失礼じゃない?」
香穂子に抱き締められたままだから、香穂子の声が直に笙子に伝わる。
香穂子はそういうけれども、笙子も土浦のように思う。きっと香穂子だったら、あんなとき、怯むことなく立ち向かっていくだろう。腕力では負けるとわかっていても見過ごさないし、何もしないではいられないだろうから。
止めようとしても、なかなかその勇気が出てこない笙子とは違う。
でも、このままではいけないのだ。
「香穂先輩、土浦先輩。ありがとうございます」
香穂子の腕の中から解放されてまず、笙子は二人に礼を述べた。
そして伝える。
今の、自分の決意を。
「次は、わたし、お二人に頼らないでも頑張れるようになりますから」
目に涙を残したまま、笙子は二人に笑いかけた。
好きなものを、大切なものを自分で守れるように、少しずつ強くなろうと思う―――。
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