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耳には自信がある。
聞こえてくる音を聞き分ける能力は誰にも負けないと思っている。どんなに似ているとしても、それは似ているだけで別のもの。誰も気づかなかったとしても、自分だけは気づくことが出来るという自負がある。
そして、絶対に聞き間違わない、聞き間違えないと言える音が二つある。
まず一つは、香穂子が奏でるヴァイオリンの音色。
最初から特別だった彼女の音。
加地を惹きつけてやまなかった音色を追いかけた。
同じ学校に転校して、同じクラスになり、隣の席に座ることが出来たという幸運。そして今は、教室の中だけではなく、隣にいることが出来るようになった。
全てはあの時、夕暮れの公園で耳にした、たった一つの音色から始まった。
その音色を、この耳が聞き間違うわけがない。
(でも、この耳がなくても、彼女の音なら聞き間違うことはないだろうな)
香穂子は特別だから。
そう意識したときから、加地にはもう一つ特別な音が出来た。
それは香穂子の声だ。
ヴァイオリンの音色よりはわかりやすい。だが、その声はどんな喧噪の中からも聞き分けられる。
そう思っていた。
いや、今この現在もその認識は間違っていない。
何故ならば、頭ではきちんとその音を、声を、香穂子のものだと理解しているからだ。
しかし、加地にはそれが香穂子の口から出たものだという現実を受け止められないでいた。
「………え?」
その思いは、か細く口から零れ出た。
「日野さん、今………」
「うん?」
並んで歩いていた香穂子は、加地の数歩先へいってから振り返った。
頬が僅かに赤く見えるのは、夕陽に照らされているせいではないと思う。香穂子は眩しさに目を細めている。香穂子を眩しさからかばうように、加地は止めていた足を動かして、香穂子の前に立った。
「今、僕の名前を呼んだ………?」
耳から入ってきた事実はそうだと告げているのに、そのことに自信が持てなくて、気弱な問いかけになってしまう。
「うん。呼んだよ」
はっきりと香穂子は頷く。
これで完全に間違いのない事実となった。
「葵くん、って」
香穂子ははにかんだ。
目の前で、香穂子の唇が加地の名前を呼んだのを見ても、まだ信じられない。
ついさっきまで、「加地くん」と呼んでいたその口から「葵」という名前を聞く違和感。
同じ香穂子の声なのに、何故、違って聞こえるのだろう。
そして、どんな些細な違いでも聞き分けることに自信のあった耳を、どうして信じられないのだろう。
だけど。
この違和感は―――悪くない。
「葵くん?」
むしろどんどん居心地がよくなってくる。
特別な香穂子の声で、名前を呼ばれるということが。
じわりと胸の裡に広がるのは、悦び。
葵。それは加地の名前で、生まれたときから付き合ってきた名前だ。
それなのに、彼女に呼ばれると新鮮で、違う名前のように聞こえる。
その幻覚に目眩を起こしそうなほど―――。
「葵くん?」
返事をしない加地を心配したのか、香穂子がそっと加地の腕に触れ、下から覗き込んでくる。
「ああ………ごめんね。ぼうっとしてた」
「嫌だった?」
「え?」
「名前、呼ぶの………」
香穂子が視線を落とした。項垂れたその頭を見つめて、加地は微笑む。
「嫌じゃないよ。むしろ嬉しい。ありがとう」
「本当?」
香穂子の顔は再び持ち上がる。
「本当。嬉しすぎてぼうっとなってた」
「………何だか、疑わしい」
「それは心外だな。心からそう思ってるのに」
加地が香穂子に口で伝える言葉はどれも全て真実。
だけど、香穂子はそれを鵜呑みにしないことがままある。
それなら。
加地が香穂子の名前を呼んだら、同じ気持ちを感じてくれるだろうか。
加地の言葉を真実だと思ってくれるだろうか―――。
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