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チケット、二枚

 風呂から上がって二階の自室へ戻る途中、リビングから聞こえてきた声に土浦は足を止めた。風呂に入っている間に父親が帰ってきたらしい。
「お帰り」
 頭をごしごしタオルで拭きながらリビングに顔を出すと、父親が帰ってきたままの状態で突っ立って母親と姉と話をしていた。
「おう。ただいま」
 土浦に似て、というよりも土浦が似てしまっただけだが、父親も大柄である。土浦よりもまだ僅かに長身で、四十代も半ばを過ぎた年齢を思えばしょうがないところもあるだろうが、それでも引き締まった体型を維持している。
「明日は都合が悪いのよねー」
 そういう姉の手の中にはチケットが二枚。
 どうやら父親が持って帰ってきたようだ。そのこと自体は特に珍しいことではない。時折父親の会社ではコンサートを主催することがあるため、こうしてチケットを持ち帰ってくるのだ。ラッキーなことに。難があると言えば、それがわかるのが前日であることが多く、今、姉が言ったように都合をつけにくいことか。
「ヴァイオリンのコンサートは久しぶりだから、行きたかったなぁ」
「ヴァイオリン?」
 姉の言葉がひっかかる。
 その瞬間ぱっと脳裏に一人の顔が浮かぶ。
 誘ってみよう。
「うんそう。何? 行きたいの?」
 チケットを差し出されたので、それまでリビングの入口にいた土浦は中へと移動してそれを受け取った。
「珍しいわね。いつもは聞き流してるのに」
「やっぱり学内コンクールに出ているせいかしら。お母さん実は嬉しいのよねぇ。また人前でピアノを弾いてくれるようになって」
 母親は本当に嬉しそうに笑っていて、土浦は言葉を無くした。まったくピアノを弾かないわけでもない。乞われれば家の中ではピアノを弾いていた。ピアノを嫌いになったわけではないから。
 だが、それだけだ。土浦の中に根付いているトラウマは消え去ることはない。
 そのことを、母親は母親なりに気に掛けていたのだろう。
「なら、梁が行くか」
「そうするよ」
 チケットの話は父親がそう締めくくって終わりになるはずだった。着替えるためにリビングを出る父親の後から、土浦も自室に戻ろうとしていたが、土浦だけはうまくリビングから脱出することができなかった。
 姉が引きとめたからである。
「それで、そのコンサート、誰と行くの?」
 言外に何かを含ませているその口ぶりを振り切ることができなかった。
「関係ないだろ」
 半身だけ振り返りながら、ぶっきらぼうにそう返す。
「そうだけどさ。気になるじゃない」
 姉はテーブルに肘を付いて土浦を見ている。その口元には笑み。形容するなら、ニヤニヤとした笑み。
「今まであんまり興味が無かったコンサート、しかもヴァイオリンのコンサートに誰かと行こうとするなんて」
 その「誰か」が誰であるか姉にはわからないものの、異性であることだけは間違いないと推測するのはたやすいことであるだろう。土浦も姉と同じ立場だったら解ったに違いない。
「ほら、あんまりからかわないの」
 土浦が何も言い返せないでいるのを助けるつもりで、母親が父親の食事を運びながら姉を窘めたが、あんまり助けにはなっていない。母親も土浦がコンサートに誘おうと思っているのが異性であることを悟っている上での発言であるからだ。
「はーい」
 にやにやしたまま、姉は言葉を切り上げた。
 すっきりしない気持ちで土浦は今度こそ、リビングを後にした。
 部屋に戻って、改めて手の中にあるチケットを眺める。そのままベッドまで移動してそこに腰掛けた。
 簡単に見透かされたのが面白くないし、気恥ずかしいが、香穂子を誘おうと思ったことに変わりはないし、変えるつもりもない。
 最近、香穂子と一緒にいて話をすることが楽しい。異性に対してこんなふうに思ったことは初めてだ。かつて、僅かな間だけ彼女と呼ぶことが出来る異性がいたが、その時は楽しかったと思ったことが無かった。今では苦い思い出でしかない。
 だが、香穂子は違っていた。話をしているともっと話していたい、と思う自分をはっきりと感じていた。小さなきっかけ一つも逃さないように、話しかける、言葉を交わす。そのためならどんな口実だって構わない。
 そんな自分の考えを浅ましいと自分でそう思えるほどに、土浦は香穂子との会話を渇望している。
 それほどまでに、香穂子は土浦を惹きつけている。
 そしてその理由を、土浦は多分知っている。惹きつけられずにはいられない理由を。
 ごちゃごちゃした理屈は必要ない。シンプルに一言で事足りる。
 たった、一言。
 だが、今はそれを明らかにする時ではない。
 もう少ししてから───コンクールが終わってから、言葉にしよう。
 だから。
 それまでは、まだしばらくはこのままで。

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