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「香穂子ちゃんって可愛いよね………」
静かな練習室で火原の声はよく聞こえた。
ピアノの前に座り楽譜をめくっていた土浦は、その言葉に一瞬動きを止める。それから、そろっと火原のほうを窺う。
火原は窓際の壁にもたれて床に直座りしていた。首をもたげて、頭のてっぺんを壁に押しつけるようにしながら、開かれている窓から空を仰いでいる。
「はい?」
聞き返すような言い方になってしまったが、何も同じ事をもう一度聞きたかった訳じゃない。聞き返さなくとも、火原が言ったことはちゃんと聞き取れていた。
それでも、そう口をついて出てきたのは火原の言うことを認めたくなかったからだ。………いや、違う。それに同意を示すことが出来なかったからだ。
「うん。香穂子ちゃん、可愛いって思わない?」
仰いでいた空から視線を転じて、今度は土浦を見上げて火原は繰り返す。しかも、今度は明らかに同意を求めるかのような疑問形だ。
土浦は今度こそはっきりと言葉に詰まる。
だが、火原は土浦の反応を期待していたわけではなかったようだ。すぐに土浦から視線を外すと立ち上がって、今まで土浦が見ていた楽譜を手に取る。そのまま楽譜をじっと見つめている。
3つのロマンス第二番。
それが火原の見ている楽譜の曲だ。
土浦は火原に気付かれないよう、静かに息を吐き出した。
その曲はついさっき、土浦が火原に演奏して聞かせたものである。他ならぬ火原にせがまれて。
最終セレクションを控えて、土浦も練習に本腰を入れていた。第一セレクションはともかくここまで好成績を残している。第二セレクションでは優勝もしたのだ。第三セレクションは三位という結果に終わったものの、まだ挽回のチャンスは残されている。最後のセレクションで弾く曲は決めた。あとは引きこなすだけだ。
だが、今日は練習室がおしなべて使用されてしまっていた。しょうがないので、楽譜を見ながらよりよい音を出せるよう解釈についても考えを巡らすかと思っていたら、練習室の開かれた窓から声を掛けられたのだ。
それが火原だった。
「あっ、土浦! ちょうどいいとこに!」
笑顔でぶんぶんと手を振ってくる。
「何ですか?」
「今いい?」
間髪を入れず返してくる。
「ええ、まぁ………」
「じゃあさ、ちょっと入って入って」
そう言って、自分の体で塞いでいた窓を開ける。
どうやら、ここから入れ、ということらしい。
行儀が悪いとか、いけないことであるとかいうことは思い浮かばなかったが、何故こんなところから出入りしなければならないのかは、理解に苦しむ。
多分、火原は手っ取り早いということしか念頭になかったのだろうが。
かといって断る理由もなかった。
土浦はひょいっと窓から練習室へ入り込んだ。
既に火原は窓際から離れて、ピアノの前に立っている。ご丁寧に、蓋まで開けて弾く準備までしてくれていた。
ピアノを弾いて欲しいのだということはわかった。自分の練習に伴奏が欲しいのかもしれない。そう考えるのは非常に一般的だと思う。
だが、違っていた。
「これ弾いてみて」
そう言って火原は楽譜を土浦に突き出した。
「伴奏すればいいんですか?」
「違う違う。土浦の音が聴きたいんだ。おれ、黙って聴いてるから」
つまり、火原のために演奏してみせろ、ということだ。
何故そんなことをしなければならないのかわからないまま、土浦は楽譜を手にとってしばらく眺める。
知っている曲だったから、曲のイメージはすぐに浮かんだ。
いくつか軽く音を出してみてから、土浦は楽譜の通りに指を動かし始める。火原はその横に突っ立って宣言したとおり黙って土浦の音を聴いていた。
(最終セレクションの曲がこれなのか?)
しかし、それにしては選曲が遅い。悩んでいたといえばおかしくはないが、それでもあと一週間とないのだ。間に合わなくもないだろうが。
しかし、それを何故土浦に弾かせるのかがわからない。
わからないと言えば、火原の行動自体が土浦にはわからない。
喜怒哀楽がすぐに表情に出る火原だし―――ただし、怒っているところを見たことはないが―――そういう意味ではすごくわかりやすい人だ。
だが、行動の予測がつきにくい。思い立ったら即行動。それはわかる。だがそれがあまりにも突飛なのだ。
今だってそうだ。たまたま通りかかっただけの土浦を捕まえてこうしてピアノを弾いているという状況。そうそうあるものではない。火原だったら同じ事を躊躇わず月森にもするだろう。そして、月森も迷惑そうな顔をしながら、火原の言うとおりにするに違いない。
不思議と、そういう無茶を許してしまう何かを火原は持っている。
土浦には真似できないものだ。
そして。
土浦は苦手だった。
思いのままに行動する、火原が。
最後の音を叩きだしたとき、火原は窓の傍まで移動していた。鍵盤から指を離し火原を振り向いたら、火原は窓枠に凭れて考え込むように首を傾げていた。
そして、その後お互いに沈黙を保ったまま数分。床に腰を落とした火原が最初に呟いたのがさっきの言葉だった。
今の曲を聴いていて、何故その言葉が真っ先に出てくるのかもわからない。
脈絡が、なさすぎる。
「やっぱり男と女の子じゃ違うのかな」
火原の独り言は続く。
そしてやっぱり何を言っているのかよくわからない。
「なんかこう………もっと柔らかい感じがしたんだよね。ふわふわしてて、甘い感じの曲だって思ったんだけど………解釈のせいかな?」
どうやら。
火原はこの曲を誰かが演奏するのを既に聴いているらしい。しかもそれは女性。更に言えばそれは、香穂子だ。
その音と土浦の音を比較しているのだ。
不機嫌になるのを止められない。
香穂子と比較されていること。その上、香穂子のほうがいいと言っていることが。
火原ははっきりと口にしたわけではない。香穂子のほうがいいと言ったわけではない。だが、そうとしか取れない発言なのだ。
柔らかくて、ふわふわしていて、甘くて。
それは、まるで―――………。
「日野の演奏はそんなに良かったですか?」
言葉に刺々しさが混ざってしまうのはどうしようもなかった。
だが、火原は気付かない。そのことが余計に土浦を苛立たせる。
「うん」
何の衒いもなく火原は頷いた。
「今までに聴いたどの音よりも良かったって思う。まだ練習の途中だから、セレクションではどんないい音になるんだろうって、何だかわくわくするよ」
自分のことのように嬉しそうに、楽しそうに笑顔を見せる。
「土浦も聴いてみたらわかるよ」
「………そうですね」
声が低くなる。
土浦はまだ香穂子が練習している場に遭遇したことがない。自分の音を掴むことに専念して、他人の音を聴いている余裕がなかったせいもある。
「火原先輩は………日野の音が、日野が………」
好きなんですね。
その言葉は続けられなかった。土浦の口から出ることを拒んだ。
はっきりと香穂子のことを可愛いと言った火原が、自分の気持ちに気がついていないわけがない。その言葉を言った後の火原の反応が手に取るようにわかる。―――結果、土浦が更に暗い気持ちになることも。
「香穂子ちゃんが、何?」
土浦の内なる思いに気付かず、無邪気に聞き返してくる。
香穂子の名前を口にするとき。これほどまでに笑顔になる人を、土浦は他に知らない。
土浦にも、出来ない顔。
羨ましいと思う前に、苛立つ気持ちを抑えられない。
どうして、これほどまでに火原の笑顔が土浦の気持ちを逆撫でるのか。その理由を土浦はわかっている。自分の気持ちをちゃんと把握している。
だから、苛立つのだ。
思いのままに行動することの出来る火原を、―――どうしたって、火原のように出来ない自分にも。
こんなところでも、火原を苦手だと感じる。
早く会話を終わらせてしまいたかった。
「なぁ、土浦。香穂子ちゃんが何?」
だが、火原は土浦の言葉の続きを聞こうと諦めない。
この人は。
土浦が、火原と同じ想いを香穂子に抱いていると知ったら、どう反応するだろう。
見てみたい気がした。
戸惑いを見せるのだろうか。それとも、ライバル意識を剥き出しにするのだろうか。
するりとそんな考えが入り込んでくると、それが頭から離れなくなってしまった。
「火原先輩も、日野が好きなんですね」
「え?」
火原はきょとんと土浦を見ている。
わざとゆっくり言ってみたが、わからなかったのだろうか。
しかし、そうではないことがすぐに解った。
火原は、満面に笑みを浮かべたのだ。本当に―――嬉しそうに。
ライバル意識を見せるのでもなく、戸惑うのでもなく。
その反応に土浦のほうが戸惑う。
「やっぱり香穂子ちゃん可愛いよね! なんだ、土浦もおんなじように思ってたんだ」
予想外の反応に、土浦は何も返せなかった。
………敵わない。
ふっと気持ちが軽くなる。口元にも緩く笑みが浮かぶ。
火原は、自分以外に香穂子を好きな人がいることを喜んでいる。それは土浦には到底真似の出来ないことだ。もう、自分とは全く違う考え方をする人だと認識を改めるしかない。
けれども、ここで諦めるつもりもない。諦める必要なんてないからだ。
火原は、香穂子を好きだというだけで。それだけだ。それ以上でも、それ以下でもない。それなら、土浦と何ら変わりはない。
緩かった笑みが力強い物になる。それは、不敵と呼んでも構わない。
「そうですね」
土浦は、笑みを保ったまま火原に頷いて見せた。
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