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007.休憩時間

 日曜日の練習室。香穂子はグランドピアノの傍で楽譜を広げた。
 平日に比べ、休日は極端に利用者が少なくなる。誰にも気兼ねせずに練習が出来る。
 ヴァイオリンを構え、弓を引く。弾き慣れた曲を奏でる。第二セレクションでも弾いた曲。何度も練習をしたおかげで、第二セレクションでは見事優勝を勝ち得た、その曲。
 それなのに。
 同じ音が出せない。音が、響かない。
「………ッ」
 最後まで曲を奏でることなく止める。
 構えたばかりのヴァイオリンを下ろす。
 ため息が漏れるのを止められなかった。
 最終セレクションは今日も入れてあと四日。弾く曲は決まっていた。だが、思い通りに奏でることが出来ない。思い描く音を出すことが出来ない。
 それは香穂子の技量が足りないからだと、わかっている。だから、何度も練習をした。しかし、何度繰り返しても、それまでに出していた香穂子の音と違うものになってしまう。
 思いのままに、気持ちのままに、そうやって弾いてきた。技量が足りない分は補われていた。
 だが、今はもう補ってくれるものはない。
 魔法のヴァイオリン。リリから与えられた、特別なヴァイオリン。
 最初はそれこそ抵抗を感じていたが、時間が経つうちに慣れていた。
 助けられていたことに、今更にして気づいた。依存していたことにも。
 気づいたときには既にそれはなくなっていた。
 壊れてしまった。壊してしまった。
 負担を掛けるほどに、練習を繰り返した結果だ。酷使してしまった、ということなのだ。リリはそれほどまでに使ってくれたことを喜ばしいこととして捉えてくれたけれど、香穂子の気持ちはそれに同意できなかった。
 何度も魔法をかけ直さねばならないほど、香穂子の音は頼りなかったのだ。
 今は、代わりのヴァイオリンをリリから用意して貰い、それで練習している。
 魔法はないと言う。
 だから、そのままの香穂子の音が出ていることになる。
 これまでの無為に練習していたわけではないが、これほどまでに酷い音だとは思ってもいなかった。自分の技術力にショックを受けずにはいられない。
 弓を持つ手の甲でぐいっと目をこする。
 練習しかない。ひたすら練習するしか、香穂子には方法がない。
 もう一度ヴァイオリンを構えた。
 今度は第三セレクション用の曲を弾き始める。
 楽譜を広げているが、もうそれも必要ないほど練習を重ねた。瞼を閉じて、自分が奏でたい音を思い描く。そうしながら弓を動かした。
「こんなんじゃ、ダメ………」
 休む暇も取らずに一心不乱に弾き続けたあと、肩で息をしながら香穂子は唐突に音を出すのを止めた。
 練習室に時計はない。練習に邪魔になるので腕時計もしていない。バッグの中には時計を入れているが、わざわざそれを出して時間を確認するのは億劫だった。
 窓の外へ目を向ける。そろそろ日が傾いてくる時間だろうか。
 何の成果も得られない。
 手応えもないまま、刻々と時間は過ぎていく。
「どうしよう………」
 香穂子はその場にしゃがみ込んだ。
 その耳にドアをノックする音が届く。
「は、はい!」
 咄嗟に返事をして立ち上がった。
「なんだ、ここにいたのか」
 ドアを押し開き、顔を覗かせたのは土浦だった。
 香穂子と同じく普通科からコンクールに参加することになった彼は、ピアノを弾く。半分は香穂子のせいで参加する羽目になったようなものだが、土浦のピアノの腕前は偽物ではなかった。難しい曲もあっさりと弾きこなしてしまう。聞けば、幼い頃からピアノに触れていたという。今でこそ普通科にいるが、音楽科の面々にも負けず劣らずである。香穂子のような付け焼き刃の技術ではない。土浦は、本物だ。
 大股で香穂子の元へと歩いてくる。
「私を探してたの?」
 さっきの言い方が気になって尋ねてみる。
「いや、そういうわけじゃないんだがな」
 そのまま香穂子の脇を通り過ぎて、窓へと近寄る。
「外はいい天気だぞ。窓くらい開けたらどうだ?」
 言いながら、土浦の手は既に窓を開けにかかっている。
「………うん」
 小さく香穂子は頷いた。
 窓を開けたくなかった。窓を開けるとここで練習している音が外に漏れる。今日は休日だから校内に人は少ないが、それでも皆無というわけではない。今の酷い音を誰にも聞かれたくなかった。
「こんなところに一人籠もって猛特訓か?」
 窓枠にもたれかかって、土浦は香穂子を振り向いた。
「そうじゃないけど………」
 傍から見たらそれ以外の何者でもないけれど。
「なぁ。一曲聴かせてくれよ」
「え?」
「第二セレクションで弾いてた曲。あの解釈、俺はいいと思ったからさ」
 逆光になって土浦の顔がよく見えないけれど、口元には笑みを浮かべていることくらいはわかる。
「………………………」
 香穂子はその顔から視線を逸らし、手元のヴァイオリンへと向ける。
 弾けない。
 手に力がこもった。
 弾けるわけがない。さっき、あれほど弾いても全く思い通りに音を出せなかったのに。今弾いたからといって、思い通り行くとは思えない。
 そんな無様な姿、見せられない。
 特に、土浦には。
「何だ? どうかしたのか?」
「ううん。なんでもないよ」
 顔を上げて、即座に否定する。笑みを浮かべてみたが、それはうまくいったかどうか自信はない。口の端を動かしたけれど、引きつっていたかも知れない。
 土浦は何も言わずに、香穂子に背を向けた。そして開けたばかりの窓を閉めてしまう。
「土浦君………?」
「今日は練習止めようぜ」
「え?」
「ちょっと俺に付き合ってくれ」
 窓を閉めた土浦は、再び香穂子のほうを向く。
「ほら、さっさと片付けろ! 十五分後正門前にいるからな。それ以上待たせるなよ」
 香穂子の返事も聞かずに、土浦は練習室を出て行ってしまった。
「何? どういうこと………?」
 限りある練習時間を削ることは出来ない。今はそれこそ寝る間も惜しんで練習をしなければ、コンクールで聴かせられる音にはならない。
 しかし、その一方で、これ以上練習をしても良い結果は出ないだろうという思いもあった。
 香穂子はため息をつくと、ヴァイオリンをしまうことにした。

 約束の十五分をやや過ぎて、香穂子は正門前に向かった。片付けるのに手間取ってしまったからだ。これでも急いだほうである。
「よし、来たな」
 門柱にもたれて香穂子を待っていた土浦は、少し遅れたことについては何も触れずに、香穂子を笑顔で迎えた。
「どこに行くの?」
 駅のほうへ向かっていることだけはわかる。だが、それだけだ。
「さて。どうするか」
「え?」
 付き合え、と言ったのは土浦のほうだった。それなのに、行き先がないなんて。じゃあ、なぜ、土浦はあんなことを言ったのだろう。
 それがまるまる表情に出ていたのだろう。土浦は香穂子を見て苦笑する。
「ま、気にするな。とりあえず歩こうぜ」
「気にするなって………気にするよ!」
 先に歩き出した土浦に追いすがる。
「ねえってば!」
「あのなぁ」
 上着を後ろから引っ張られて、土浦は足を止めた。香穂子もそれに合わせる。
「………ちょっと気分転換しようと思ったんだよ」
 香穂子の手が土浦の上着から手を離すと、土浦は襟を正した。
「お前、煮詰まってるっぽかったからさ。そういうときは無闇に練習すればいいってもんでもないしな。だから連れ出した。そういうことだよ」
 かあっと香穂子は顔を朱に染める。
 土浦に見抜かれていたのが恥ずかしかった。みっともない姿に気づかれていたのがたまらなく恥ずかしかった。
 だから次に香穂子の口から出てきたのは大声だった。
「そんなの! 当たり前じゃない! 私、土浦君みたいに上手くないんだから!! 練習して練習して、でもそれじゃダメなんだよ! 結局、私は助けがなきゃ何にも出来ない! それがどんなに情けないことか、土浦君にはわからないでしょうっ」
 勢いで言葉をぶつけてしまってから、香穂子はすぐに後悔した。目の前には眉を顰めた土浦の顔があった。
「………………いいから、行くぞ」
 土浦の低い声が香穂子を促し、香穂子はそれ以上もう何も言えなかった。
 それから駅までの道のりは終始無言だった。
 その沈黙の重さに耐えきれなくなった頃。
「少し小腹が空かないか?」
 唐突に土浦が言った。さっきの香穂子の言葉はなかったもののように振る舞う土浦に香穂子は戸惑いつつも頷いた。香穂子自身はそれほど空腹を感じていなかったが、何か飲みたい気分だったから。
 二人は駅前通りの中程にあるドーナツ屋へと入った。
 満席かと思われた店内で一つテーブルが空いているのを目敏く見つけた土浦の後についていく。手洗いから一番近い席だったが、日曜日のこの時間帯に空いていただけでも良しとしなければならない。
「何だか意外………」
 チョコリングを三口ほどで平らげた土浦を見て香穂子はぽつりと漏らす。
「何が?」
 手に付いたチョコをテーブルに備え付けてある紙ナプキンで拭き取りながら、土浦は香穂子の言葉に反応する。
「甘い物、食べるタイプに見えなかったから。苦手っぽそう」
「そうでもないんだがな。甘い物も結構食うよ。食べることに関しては結構貪欲だな、俺は」
「そんなふうには見えないよ。どっちかっていうと、火原先輩のほうが食欲旺盛で食べることに情熱がありそう」
 以前、昼休みの購買部ですれ違った火原は両手いっぱいにいろいろなパンを抱えていたことがある。姉しかいない香穂子にとっては年頃の男の子が食べる平均的な量に詳しくはないが、あれは多すぎるだろうということだけはわかった。
「ああ、火原先輩はよく食うよな。燃費が悪いっていうか。でも、あれは貪欲というよりただの大食らいじゃないか?」
 そう言う土浦は、二個目のドーナツに手を伸ばした。
 二人の間にあるトレイにはドーナツはあと一個しか残っていない。
「燃費が悪いって………面白い表現するね、土浦君」
「でもそう思わないか? きっとすぐ消化してしまうんだろうな。よく動いてはいるけど、あそこまでなぁ。火原先輩、昔は短距離走者だったって話だけど、その頃はどれだけ食べてたんだか。それに引き替え、志水はもっと食べたほうがいいよな」
「志水君は食べないわけじゃないんだと思う。多分、食べるタイミングがうまく掴めないだけで」
「それが問題だろうが。音楽にはあんだけ集中するくせに、生存本能はいい加減だよな。あれでよく倒れないと思うぜ、俺は。あれが俺の弟だったら、首根っこひっつかんできちんと食わせるけどな」
 土浦が志水の首根っこを掴んでいる様子を思い浮かべて、香穂子は笑いをこぼす。きっと首根っこを捕まれても、志水はそれに抵抗することなく引きずられるままになっているだろう。いや、土浦は背が高いから足が宙に浮いているかもしれない。それでも、その手の中にはきっと本が握られていて、志水の視線はそこしか向いていないに違いない。
 そんな想像をして一度笑い出すと、もう止まらなかった。それから土浦が何か言うごとに何もかもが面白い気分になってきて、笑ってばかりいた。
 結局、二時間ほどをそのドーナツ屋で過ごした。店を出たときにはもう完全に日が傾き、東の空から少しずつ夜の色に変わりつつあった。
「さて、そろそろ………」
 帰るか、と続けようとしたのだろう。だが、その土浦の言葉を香穂子は聞いていなかった。違うものを香穂子の耳が捉えていたからだ。
 軽快な音。キーボードにベースと、ギター。それらが紡ぎ出している音に香穂子は気を取られた。
「………おい」
 ふらふらと、音に導かれるように歩き出した香穂子を土浦は呼び止めようとしたようだが、止めた。今香穂子の耳には、三種の楽器が奏でる音しか入っていないのが解ったからだ。その代わり、香穂子の後ろから黙ってついて行く。
 かなりアレンジされているが、これは「アヴェ・マリア」。第一セレクションで演奏した曲で、さんざん練習もした。香穂子はオーソドックスな解釈で演奏したが、こんなにも鮮やかな解釈があるのかと驚く。使っている楽器の違いはあれども、ヴァイオリンでもこれくらいの演奏は可能だろう。
 音に導かれて辿り着いたのは駅前の広場だった。噴水の傍でストリートライブが行われていて、そこそこの人だかりが出来ていた。
 人の間から覗く。演奏している人たちの顔はもちろん知らない。全員が大学生ぐらいの男性で、笑顔で演奏している。こうして音を出すことが楽しくてしょうがないと、そう言わんばかりの笑顔。
 羨ましい、とそう思った。
 あんなに楽しく音を出せるなんて。
 でも。
 そう言えば、第一セレクションまではとにかく音を出すことに一生懸命だったが、その後は音を思い通りに出せる楽しさを感じていたように思う。今目の前で演奏している人たちに敵わなくとも、香穂子だって弾くことを楽しんでいた。簡単な合奏をしたこともあった。はまってるな、なんて思ったこともある。
 すっかり忘れていた。
 今の香穂子はもう思い通りに音を出せなくて、そのことばかり考えて余裕を失っていた。
「面白いな」
 香穂子の横に並んだ土浦が呟く。
「うん」
 素直に頷いた。
 思い通りに音を出そうとするのが間違っていたのだ。多分、熟練した演奏者ならそれも可能だろう。しかし、香穂子は素人なのだ。普通に考えて思い通りに音を出すなんてことが出来るわけがない。それよりもまずは香穂子が楽しむことを先に考えなくては。思いはそこに現れてくる。
 今、目の前で演奏している人たちの音をいいなと思うのは、音にも彼らが楽しんでいる気持ちが表れているからだ。音楽は、思っていた以上に人の気持ちを表現している。
「お前さ」
 土浦が話しかけてきたので振り仰ぐと、土浦は視線を前にしたまま続けた。
「他の参加者に比べれば、やってきた期間が違うのはわかりきってただろ。それでもへこたれなかったよな。挙げ句に第二セレクションでは優勝をかっさらってさ。はっきり言って、俺ら立場がない」
「でも、それは………」
 リリの魔法があったからで、とは言えなかった。言ってもいいような気がしたが、躊躇われたのだ。
「すげぇ女って思うよ。でも、ここ数日のお前はさ、余裕なくして焦ってたよな。見てられなくて、つい口出しちまった。そういう時はさ、焦ってもしょうがないんだ。出来ないもんは出来ない。まずはそう割り切って、じゃあどうすればいいのか考えるんだ。ずっと勉強してると疲れてくるだろ。疲れてるところに無理したって、成果はなかなかあがらないんだ。そういうときは休憩するだろ?」
 ただ頷く。
「それと一緒だよ。そりゃあ技術力を付けるためには練習するのが一番だけど、根を詰めてやればいいってもんじゃない」
「だから、休憩?」
 土浦の言葉を先回りする。
 ようやく正面から顔を逸らし、香穂子のほうを見た土浦は笑みを浮かべた。
 言葉では肯定も否定もしなかったが、そういうことだ。
「………ありがとう」
 香穂子の口をついて出た言葉に、やはり土浦は何も言わなかったが、香穂子の背中を軽く二回だけ叩いて応えた。


「明日からまた頑張るね、私!」
 通り道になるからと、家まで送ってくれた土浦に香穂子はそう元気よく宣言する。
「おう。よろしく、ライバルさん。容赦はしないからな。今度は俺が優勝させてもらう」
 そう言うと、土浦は踵を返し、「また明日ね!」と声で追いかけた香穂子に、前を向いたまま、軽く手を挙げた。

拍手[0回]





「休憩時間」でこういう使い方もありかと。本当は文章の中でちゃんと「休憩時間」という台詞を入れたかったんだけど、ダメでした………。妙に生々しいというか、微妙にリアルな話になってしまったような………。でもヴァイオリンが変わった直後はこんな風に思ったりすることもあっただろうということで。ちょっと後ろ向きな香穂子さんではありますが。やはりこういうさりげない気の利かせかたは土浦君でしょうということで、お相手は土浦君にしたんですが、まかり間違っても土×日ではありません。恋愛要素さっぱりなし。ライバル度のほうが高いのかもしれない。書いているときはいろいろ思ったこともあったんですが、書き上げてしまうとそれすらすっぽりどこかへ行っちゃいました。書いたー! という開放感と共に。今回、このお話時間がかかっているので………。筋が決まるのは早かったのですが、そこから文章にするのが一苦労。やはり悩み悩んで成長する過程の微妙な変化を書くのは難しい………。しかも悩むといったその心理を書くのにも筆が進まないし。尚、作中の「アヴェ・マリア」のアレンジ。全くの想像ですが、きっとどこかにあると思います。どこかのバンドマンが弾いているような気がします。一度聴いてみたいです。
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