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「ねぇ、私のこと好き?」
「はあ!?」
突然、予想もしなかったことを訊かれて、土浦が咄嗟にした反応はそれだった。
ヴァイオリニストとしての道を進み始めた香穂子は、ヴァイオリンの練習をしながら土浦の部活が終わるのを待つ。それから一緒に帰るのがいつものパターン。
他愛もないことをお互い喋りながらの帰り道。些細なことでも笑う香穂子が今日に限ってあまり反応を返さないと思っていたら、そんなことを考えていたとは。
お互い自然に足が止まり、向かい合う。
「何だよ、突然」
「いいから! ねえ、好き?」
どちらかと言えば強気な香穂子であるが、今日は一歩も譲るつもりはないらしい。その意志が瞳の中に表われていた。殆ど睨みつけるようにして土浦を見ている。
「じゃなきゃ、付き合ってなんかないだろう」
気恥ずかしくなって香穂子から視線を逸らした。
「じゃあ、そう言って」
「は?」
逸らした視線を再び香穂子に戻す。香穂子の表情はさっきと変わっておらず、むしろ眼光が強くなっている。
「好きって、言って」
「…………………………………………」
絶句。
何故急にそんなことを求めてくるのか。いつもいつも香穂子は唐突で土浦を驚かせる。その驚きは最終的には土浦を喜ばせることの方が多いが、今回ばかりは困惑するだけだ。
何故なら。
そんなこと、今更恥ずかしくて言えないからだ。
「ねえってば!」
「うるさいな!」
気づいたら、そう返していた。必要以上に強い口調になってしまった。
見つめ合っていた香穂子の目が怯む。まずい、と思ったが一度口に出した言葉はもう取り消すことが出来ないし、その言葉はある意味土浦の本心だ。
「……………………わかった………」
香穂子が目を伏せた。
泣く。
その予想は、次の瞬間顔を上げた香穂子の表情によって裏切られた。向けられた視線には更に強い光があった。
怒っている。
今度は間違っていなかった。
「もういい!」
そう言い捨てて香穂子はあっという間に土浦の前から走り去ってしまった。
一人道ばたにぽつんと残された土浦は、大きなため息をついた。
翌朝は朝練があったので、香穂子と顔を合わせたのは一時間目の授業が終わった後だった。香穂子は移動教室のようで、偶然廊下ですれ違った。
「あ、おはよう!」
きっと無視されるんだろうな、と思っていた土浦は、笑顔で挨拶をしてきた香穂子に拍子抜けする。
「……………おはよう………」
半ば呆然と、挨拶を返すと香穂子は「じゃあ、お昼休みにね!」と言って級友と土浦の横を通り過ぎていった。
一体何なのだろう。昨日のあれは怒っていたのではなかったのか。
しかし、何にせよ香穂子の機嫌がいいのなら、それに越したことはない。今度はやれやれと安堵の息を大きく吐いた。
昨日のことなどすっかり忘れたように香穂子は弁当をつついている。最近、土浦より料理上手になるんだと妙な対抗意識を燃やしていて、毎日土浦の分まで弁当を作ってくる。
森の広場のベンチで並んで座ると、蓋を開けた。まず、中身を一瞥する。
「新メニューだな」
卵焼きを箸で挟んで、少し掲げてみた。
「ちょっと工夫してみましたー」
香穂子が笑う。少し自慢げに。
卵焼きの中心に緑色のもの。ほうれん草のおひたしが巻かれている。
「結構いける」
「でしょー」
笑顔に照れが入る。
こういう顔をするときの香穂子を、土浦はとても可愛いと思う。本人には言わないけれど。
「こういうの、土浦君好きそうだと思って」
「ああ、好きだな」
弁当の中身を口へ運びながら肯定する。その横で、香穂子が土浦が好きそうなものを上げている。それにいちいち返しているうちに、土浦の弁当箱は空になる。
「あんまり喋ってると、食べ終わる前に昼休みの方が終わるぞ」
「あ。そうだね」
まだ半分以上も残っている香穂子の弁当箱。それが香穂子の膝の上にちょこんと乗っている。土浦のよりも一回り以上小さい弁当箱なのに。
「じゃあ最後にもう一つね」
「何だ」
紙パックのお茶をストローで吸い上げながら、香穂子の言葉を待つ。
「土浦君、私のことも好きよね」
「!!」
口に含んだばかりのお茶を吹き出すところだった。慌てて口を押さえる。
何とか無事に嚥下したものの、咳き込んでしまう土浦を香穂子はにこにこと見つめている。返事を待っている。
どうやら、土浦からその言葉を貰うことを諦めていなかったようだ。
「………………あのな………」
この場をどうやって逃れよう。その方法を模索するが、いい方法は思い浮かばない。多分、言ってしまえばそれで香穂子は満足するのだろうし、一番手っ取り早い方法だともわかっている。
だが、言えない。
「怖い顔したってダメだよ。私は全然怖くないからね」
無意識に眉間に皺を寄せていたらしい。目つきも険しくなっているのだろう。だが、慣れた香穂子には通用しない。別に怖がらせるつもりでこんな顔になっているわけではないが、今回ばかりは通用して欲しい、と切に願った。
「何で言わなきゃならないんだ」
「何で言ってくれないの?」
香穂子の笑顔が引っ込んだ。睨み合いになる。
「どうしたの? 二人とも」
譲らない土浦と香穂子の間にのんびりした声が割って入ってくる。
天羽だった。
正直、助かった、と思った。このまま睨み合いをしていれば、少なからずまた喧嘩別れしそうだし、今度はもっときついことを香穂子に言いそうだった。
「喧嘩? ほどほどにしときなさいよー」
「何か用か?」
「土浦君に用はないわよ。あるのは香穂」
手のひらでひらひらとあしらわれて、ちょっと腹立たしい気分になるが、この場を救ってくれた恩人ではある。気持ちは抑えておいた。
「今日、放課後暇? ちょっと付き合って欲しいトコあるんだ」
「いいよ」
香穂子は即答した。
「ありがと。助かる! じゃあ、土浦君、今日は香穂借りるわね」
「どうぞ」
僅かに香穂子の右の眉が上がったようだが、気づかないふりをする。
去っていく天羽の背中を二人で見送っているうちに、予鈴が鳴り始めた。香穂子の弁当箱の中身はさっきのまま。結局、香穂子は食べそびれたかたちになる。
仕方なく弁当箱をしまうと、並んでそれぞれの教室へ戻った。
どちらも無言のまま。
香穂子と昼休みになるまで顔を合わせないというのは良くあることだ。それほど教室は離れてはいないのだが、意外と遭遇しないものである。
そのことが喜ばしいこともある、と気づいたのはこれが初めてだった。
昨日は結局あのまま別れて、帰りはもちろん一緒になることはなかったし、今朝も朝練だったから登校も別だった。それでずるずると昼休みになってしまった。
天気が良ければ大抵は森の広場で弁当を広げる。たまに香穂子の気分でそれが屋上になったりすることはあるが。
昼休みになるとすぐに教室を出て香穂子を迎えに行く。香穂子は自分の教室の前で土浦を待っている。二人分の弁当が入ったバッグを提げて。
だが、今日の香穂子はバッグを提げずに土浦を待っていた。
「今日はお弁当ないから」
近寄った土浦に、感情を抑えた声で香穂子はそう告げた。
「じゃ」
それだけ言うと、香穂子は教室へと戻っていった。
何も言う間も与えられず、やや口を開いた状態で土浦は香穂子を見送ってしまった。
「………………なんだぁ、そりゃ」
キャプテンの集合の声に、追いかけていたボールを脇に抱えると走ってキャプテンの傍に移動する。
今日の練習はこれで終わりだ。顧問から伝えられる連絡事項を耳に入れている部員達は、シャツの裾や袖で流れ落ちる汗を拭っていた。
土浦もそうして汗を拭いながら顧問の話に耳を傾けていたが、ふと、その軽やかな旋律が聞こえてきた。
香穂子の音だ。
屋上で練習をしているとき、風の向きによってたまに聞こえて来ることがある。
明るく軽快なその音は、香穂子の気持ちをそのまま表わしている。わかりやすいほどに。
だから、今日の香穂子の音は心なしか勢いが足りないような気がするのは土浦の気のせいではないはずだ。そしてその原因がどこにあるのかも。
香穂子のことは大事だ。大切にしたい。泣かせたくないし、悲しい顔もさせたくない。あんな音も出させたくない。喜ばせたい。笑わせたい。
昼休みの調子だと、土浦を待たずに帰ってしまう恐れがある。部活を終える最後の礼を済ませると脱兎のごとく駆け出した。
着替えも何もかも後回しだ。とにかく香穂子を捕まえなければ。
そう思う気持ちが土浦を急き立てる。階段を上り、屋上へ。荒々しく屋上へと通じるドアを開け、香穂子の姿を探した。
探すまでもなかった。グラウンドの方を向いて、ヴァイオリンの音色が紡いでいる。香穂子の白く細い指が、弦から音を弾き出す。
「香穂」
背後から声を掛けると、ぴたりとその音が止んだ。だが、香穂子は振り返らない。
「俺は、その…………そういうのが苦手なんだ」
構わず話し始めたのはいいが、自分でも全く要領を得ない話し方になってしまった。
「だけどな、ちゃんと…………その、想ってる、から………」
言っているうちに自分で照れてきて、頬が赤くなるのを止められない。ガリガリと頭を掻く。髪が汗で濡れていて指先が湿った。
ヴァイオリンを降ろした香穂子がくるっと土浦へ向き直る。
「わかってる」
「じゃあ、何だって……」
「だって、一度も好きって言われたことなかったんだもん」
「はぁ!?」
「あのね。土浦君、一度も好きだって言ったことないんだよ」
考えたこともなかった。
セレクションが終わってから、自分の想いを告げてから、付き合うようになってから。
一度も言ったことがない?
慌ててこれまでを思い出すが、確かに記憶にひっかかるところが、ない。
「別に、土浦君の気持ちを疑ってるわけじゃないよ。でも…………好きだっていう言葉が欲しくなるときがあるの。土浦君って、あまり想ってること口にしないし………」
足下へと注がれていた香穂子の目線がすっと上げられ、土浦を捉える。
「だから、言って欲しかっただけ」
土浦を見上げたその顔には、笑顔。だが、それは満面というには遠くて、僅かに寂しさを抱えているよう。
土浦は自分を突き動かそうとするその衝動を必死で抑えようとした。だが、堪えられない。
「ひゃ」
香穂子は土浦に引き寄せられ、間抜けな声を上げた。
「冷たいよ」
非難の声を上げて土浦の腕の中で逃れようともがいているが、土浦は腕の力を抜くどころか更に力を込める。
「土浦君ってば!」
とんでもないことを思いついて、要求して、香穂子は土浦を困らせる。でも悪くない。いつだって最後には愛しさが残るから。今回だって結局そうなった。
ただその一言が欲しかっただけで、怒ってみたり、誘導してみたり。
その時は確かに腹立たしかったし、本気で困っていた。
だが、さっきみたいな表情を見てしまえば、どうでもよくなってしまう。香穂子の仕草や表情や行動、それら全てが愛しいと思う。
それほどまでに欲しいのなら、答えよう。ただし。
「一度しか言わないからな」
ぴたっと香穂子は抗うのを止めた。
静かに僅かに息を吸い込んだ。その言葉を香穂子の耳元で囁くために。
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