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030.忘れ物

 待ち合わせの正門前へと向かう土浦の足取りは急いている。今日の練習は少し時間が長引いた。
 夕方六時を過ぎても太陽はまだ落ちてはいないし、暑さが和らぐこともない。それでも日中、炎天下でボールを追いかけるのに比べれば、この下校時刻はまだましだ。
 だが、この熱気の中で長いこと人を待たせるのは忍びない。しかも待っているのは香穂子なのだ。
「悪い! 待たせたな」
 香穂子は妖精の像と向き合ってぼんやり立っていた。
「ううん。大丈夫」
 振り向いたその顔には、土浦が現れたことへの率直な感情が浮かんでいる。
「帰ろうぜ」
 その表情につられて笑みを浮かべた土浦は香穂子を促した。
「明日から合宿だったよね」
「ああ」
「五日間だったよね」
「ああ」
「長いね」
 最後の言葉を香穂子は呟きに変えたが、隣を歩く土浦にはちゃんと聞こえていた。
 七月末から既に夏休みに入っている。土浦は毎日部活で、香穂子もコンクール以降も熱心に取り組んでいるヴァイオリンの練習で、それぞれ学校へ出てきているから毎日顔を合わせている。だから、五日間も顔を合わせないでいのはお互いを知ってから初めてのことになる。
 香穂子の寂しそうな呟きはそのせいだ。
「あっという間だろ」
 多分、香穂子と同じ想いを持ちながらも、土浦は香穂子の呟きを否定する。
「そうかな」
 少し遠くを見る目をしていたが、すぐに焦点を土浦に合わせてはにかんだ。
「そうかも。五日間ってあっという間かも。最近、一週間が早く感じられるし」
「そうだな」
 今度は同意を示す。一週間を早く感じるのは土浦も同じだ。
「明日、何時に出発するの?」
「学校を出るのは九時だな」
「じゃあ、八時くらいには家を出るんだ」
「それくらになるか」
「わかった。じゃあ、明日、朝から迎えに行くね」
 いいことを思いついた、と言わんばかりの表情に土浦は面食らう。
「何で」
「いいからいいから」
 香穂子はバシバシと土浦の背中を二回手のひらで叩いた。


 昨日の言葉どおり、香穂子は八時に土浦の家の前で、土浦が家から出てくるのを待ち構えていた。
 実は、七時半には既に準備を済ませていて、家を出ることも出来たのだが、昨日の香穂子の言葉もあったし、土浦とてしばらく会えなくなる分、少しでも一緒にいたいと思うから、ぼんやりと八時になるのを待っていたのだ。
「おはよう!」
 出てきた土浦を、香穂子は元気な声で迎える。
「おはよう」
「荷物、少ないね」
 いつも部活へ行くときに愛用しているショルダーバックの他に着替えが入ったスポーツバックも提げているからだが、そう重いものでもない。これから、学校へ行ってサッカーボールやユニフォームなどを持ち出すので、大荷物になる。
 学校までの道すがら話したことは、いつものように他愛の無いものだった。五日間も顔を合わせないからといって、特別な話題は出てくるものでもない。
「じゃあ、いってらっしゃい」
 正門から入って、妖精の像を過ぎたあたりで別れる。香穂子はこのまま練習室へ直行するし、土浦も部室へと向かう。
「おう。行って来る。メールは出来たらするけど、あんまり期待しないでくれよ。帰ったら電話するし」
「うん」
 お互い手を挙げて、それぞれの方向へ歩き出す。
 今日の土浦の靴はスニーカーで歩く音をたてないが、香穂子のそれは革靴だから靴底が石のタイルに当たる度に軽い音がする。それがどんどん遠くなるのが聞こえていたのだが、ふと、その足が止まり、今度は音が近くなってきた。しかも、その感覚が早い。
 小走りで戻ってくる香穂子を振り向いて待つ。
「どうした?」
「うん。忘れ物」
「忘れ物?」
 香穂子の言葉をそのまま繰り返した土浦のシャツの首元がぐいと引っ張られる。それほど強い力ではなく、どちらかというと掴まるためにそこを掴んだようだが、引っ張られるままに土浦の上半身が少し前傾する。
 そして、背伸びをした香穂子の唇が、土浦の唇に触れる。そのままの状態で十秒ほどしてから香穂子が離れ、土浦のシャツも開放された。
 見上げてくる香穂子の頬はほんのり赤く上気させ、口元には照れ笑いが浮かべていた。

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久しぶりの土日の話になりました。書きたかったのは、最後の部分です。「忘れ物」といって香穂子がキスをしてくるところ。ここが最初にあって、それからカップリングを土浦にすること、そういうシチュエーションに持っていくには土浦がどこかへ行く必要があること、どこかというなら合宿しかないよな、と形が決まりました。書きたいところがそれなので、すごく短い話になっちゃいましたね。こんなに短い話も珍しいかも。香穂子がコミックとは違ってちょっと大人しめなイメージです。やることはやる子なんですけどね。だけど、土浦はそんな香穂子に翻弄されていますよ。実は書きながらこの「忘れ物」を火原が香穂子に、というのも出来るなーとか考えてしまいました。そしたら、もっと甘々になるだろうなぁ、とも。
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