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「はい、助かりました。ありがとう」
三時間目が終わった後の休憩時間、香穂子は土浦から借りていた英語の教科書を返しに来た。
「どういたしまして」
薄っぺらい教科書を受け取る。
「じゃ、次移動教室だから行くね」
「おう」
急いでいるのだろう。小走りで去っていく。
土浦は返して貰った教科書の背で、自分の肩をとんとんと叩きながら席へ戻った。
「日野さんって、結構うっかりやさんだなー」
隣の席の男子がニヤニヤ笑いながらこっちを見ていた。
僅かに眉をつり上げながら、自分の席に着いた。
「うっかりというか、ボケてるっていうんだよ、アレは」
さして面白くもなさそうに、そう返す。
「一昨日もなんか借りに来てたよね」
「そうだな」
「あれかな、少しでも土浦に会いたいーって健気な女心ってやつ?」
「さぁな」
そらきた。
香穂子を餌にして土浦をからかおうという魂胆なのだろうが、そうそう引っかかってたまるものか。
「可愛いねぇ、日野さん」
ノーコメントを通した。
頷いても、否定しても相手を喜ばせるだけだとわかっているからだ。だが、無言でいることも相手を喜ばせていることに土浦は気づいていない。からかわれたくなくて、返事をすることを控えているのだとからかっている相手はそこまで察している。
授業開始のチャイムが鳴り響き、教師が前ドアから入ってきたので、それまでとなった。コンクールが終わって一ヶ月ほど経った。ピアノ奏者とヴァイオリン奏者ではあったが、伝説を起こした二人として校内で有名な土浦と香穂子である。そんなことで校内に二人が付き合っていることが知れ渡っているのは、非常に不本意なことであるが。
別に伝説とかそんなものは全く関係がないと思う。伝説があったから、香穂子と付き合うようになったわけではない。自然の成り行きだったとしか言えない。
だが、この学院の生徒はどうもロマンチストのほうが多いらしく、伝説を成就させたカップルだと言って今でも騒いでいる。
いい加減放って置いて欲しいものだ。
「じゃあ、テキストの三十八ページ開いて――」
教卓から聞こえてきた声に指示されるままにそのページを開く。
所々ピンクのマーカーが引かれているのは、昨夜予習をしたときに土浦がやったものだ。わからない単語をマーキングし、その下に小さく文章に合う意味を書いておいた。
ざっと、視線を開いたページに走らせて、右のページの下隅に印刷されたものではない文字を見つける。
その筆跡には憶えがある。香穂子だ。
『土浦君の予習、役に立ったよー。ありがとー』
言葉の後ろに香穂子の似顔絵付きだった。
香穂子のクラスも今日このページをやったらしい。
香穂子の似顔絵が本人に似ていてふっと相好を崩す。指名された生徒が英文を読んでいるのを耳にしながら、何の気なしに次のページをめくってみて、次の瞬間には「はぁ!?」と大声を上げていた。それと同時に教科書を荒々しく閉じる。
英文を読み上げていた生徒がびくっと声を出すのを止め、教室内の視線が全て土浦に向けられた。
視線を感じて、はっと我に返る。
「土浦君、何か?」
教卓から下りてくる教師に「すみません。何でもありません」と僅かに赤面しつつ返すと「そう」とあっさり引き下がった。先を続けるよう、立ち尽くしたままの生徒を促す。
気を取り直して再開された授業に、周りに気づかれないよう土浦は息を吐き出した。
それから、そろそろと教科書を開く。
まずは三十八ページ。
そして、ページを繰る。ゆっくりと。
だが、完全にめくってしまわないうちに、さっと元のページへと戻してしまう。
次のページはもう直視出来そうにない。
ところが、授業は容赦なく進んでいくもので。
(あのバカ………!)
内心で憤りながら、土浦はどう仕返ししてやろうかと、それを考え始めた。
昼休み終了間際。
香穂子の教室を今度は土浦のほうから訪れた。
「古典の教科書、貸してくれ」
「うん、いいよ」
ニコニコと香穂子は教科書を取りに自分の席へと歩いていく。
無表情を保ちながら香穂子を待つ。内心に渦巻くものを香穂子には気取られなかったようだ。
「はい。でも、うち六時間目古典だから。五時間目終わったら返しに来てね」
「わかった。じゃあな」
「うん」
手を振る香穂子に見送られながら自分の教室へと戻った。
きっと香穂子は土浦があの教科書に香穂子が書いていたことを見ていないと思っているだろう。今、無表情で香穂子と対峙したのはそう思わせるためだったのだから。
ついでに言えば、次の授業は古典ではない。数学だ。古典の授業は一時間目に終わっている。それなのに古典の教科書を借りた理由はただ一つ。香穂子のクラスの六時間目が古典だと知っていたからだ。
(同じ目に遭わせてやる)
決心を胸に、土浦は教室へと戻った。
「つっちうらく~ん!」
一緒に帰るための待ち合わせは、正門前。
コンクールを終えて部活に復帰した土浦と、コンクール後もヴァイオリンの練習を続けている香穂子。帰る時間を合わせている。
今日は土浦のほうが先に待ち合わせ場所に着いていた。
そこへいつもよりテンションの高い香穂子の声が土浦の名を呼ぶ。
振り返ると同時に、土浦の腕にがしっと香穂子が絡みつく。
「なっ」
唐突な行動にたじろぐ。
「私も愛してるよー」
語尾にハートマークが付いてもおかしくなさそうな声に、香穂子が何を受けてそういう言葉を発したのかを悟る。悟るや否や、土浦の顔が赤く染まる。
その様子を香穂子は土浦の腕に抱きついたまま、笑顔で見上げていた。
一方の土浦は、顔を赤くする以上の反応を出来ずに固まっていた。
「ふふふ」
香穂子は嬉しくてたまらない、と言わんばかりの笑みを零して、「さ、帰ろう」と土浦の腕をそのまま引っ張った。
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