[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
エントランスへ降りてきたところで、香穂子が柚木に何かを渡して、ぺこりと頭を下げて身を翻すところを丁度目にした。
香穂子も正面に表われた土浦の姿に気づいて、ぱたぱたと駆け寄ってくる。
「何だ?」
「はい、これ!」
左手に提げていた紙袋から出てきたのは、白い包装紙にくるまれ、濃い赤のリボンを掛けられた厚さが五センチほどの箱。
今日がバレンタインであることを土浦はもちろん知っていたから、この中身がチョコレートであることは容易に想像がついた。
「ああ。どうも」
貰うのに断る理由もないので、素直に受け取った。
どうやら、さっき香穂子が柚木に渡していたものもこれだったらしい。
「しかし、まるで中元か歳暮のようだな。みんなに配って回ってるのか? ご苦労だな、義理チョコってのも」
土浦は口の端を持ち上げた。皮肉そうな笑みになったのを本人は気づいていない。
「義理じゃないよ。ちゃんと気持ち込めてるんだから」
「へぇ」
語尾を上げると、疑っているかのように聞こえる。香穂子が頬を紅潮させる。バカにされたと思ったのだろう。
「じゃあっ」
少し怒った口調で言い捨てると、香穂子はさっと土浦から離れていった。
その背中を見送りながら、土浦は小さく舌打ちしていた。
香穂子を怒らせるつもりなど毛頭ないというのに。言葉が勝手に口をついて出ていた。
手の中に残された箱をまじまじと見つめて、今度はため息を漏らす。
香穂子からチョコレートを貰うこと。それ自体は嬉しくないわけではない。問題はそこじゃない。
「あ、土浦!」
いつでも翳ることを知らない明るい声が土浦を呼んだ。声のした方へ首を回すと、火原がぶんぶんと手を振りながら近寄ってくるところだった。その手の先には直方体の細い箱。白い包装紙は土浦のと同じだが、リボンは濃紺。
意識したつもりはなかったが、素早く箱を持った手を後ろへ回す。
「ねぇねぇ香穂子ちゃんからチョコ貰った? 優しいよね、香穂子ちゃん。みんなに配ってるんだって。ちょうど志水君と一緒にいたんだけどね。志水君とおんなじものだったけど、でも嬉しいよね!」
「え?」
火原の最後の言葉にひっかかる。
火原が香穂子から貰ったチョコレートは、今火原が手にしているものらしいが、それは志水と同じものであるという。
土浦が驚きにも似た声を上げたのを、火原は別の意味に取ったようだ。
「あれ? まだ貰ってない? 香穂子ちゃんと会ってないの? 今どこかなぁ。おれ会ったの三十分くらい前だったし。あ、香穂子ちゃんも探してたりして!」
火原は土浦がまだ香穂子からチョコレートを貰っていないと思っているようだが、もちろんそれは違う。だが、敢えて土浦はそれを否定しないでいた。
それよりも気に掛かることがある。
火原と志水は同じもの。
だが、土浦はそれとは違うもの。箱の大きさも明らかに違っている。
―――義理じゃないよ。ちゃんと気持ち込めてるんだから。
さっき言い返してきた香穂子の言葉が甦る。
「先輩、失礼します!」
突然走り出した土浦を見送るはめになった火原は、「だいじょうぶだよ! ちゃんと土浦の分も用意してあるよ!」と的はずれの言葉を土浦の背中に投げかけた。
何でこんなわかりにくいことをするんだ。
香穂子を探して走りながら、土浦は胸の裡で呟く。
夏の前に行われた学内コンクール。それにとんでもない方法で有無を言わせず参加させられた。音楽科の生徒が参加者の殆どを占める中で、普通科から参加したのは土浦と香穂子。しかも香穂子はこれまでにヴァイオリンに触れたこともない素人だった。なのに、みるみるうちにその腕は上がっていった。
土浦もそれに刺激された。ピアノとあんなに真剣に向き合ったのは久しぶりのことだった。だが、それくらいしなければ、音楽科どころか、香穂子とも張り合えなかった。
結果は香穂子が優勝。各セレクションでも優勝ばかりしていたのだから、総合優勝は目に見えていた。正直悔しいと思った。
その香穂子はコンクール以降もヴァイオリンを続けている。土浦も負けたくなくて、ピアノを続けている。その一方でサッカーも続けているのだが。
香穂子の音を聴くと、自分もピアノを弾きたくなる。セレクションの間は、ただのライバルで負けたくないという気持ちだけで香穂子に対してきたが、セレクション以降はその気持ちが少し変化している。
ライバルだ、負けたくない、という気持ちに変わりはない。だが、そこに一緒に並んで音を奏でたいという気持ちが加わった。香穂子の音を聴くと、自分の中に自分ですら気づかなかったような音が存在することに気づく。
香穂子は見つからない。もう帰ってしまったのかも知れない。
思い当たるところを一周してエントランスへ戻って、ようやく足を止めた。もちろん既にそこには火原もいないし、下校時刻が迫っているので、人もまばらだ。土浦もそろそろ帰らなければならない。
大きなため息が漏れた。
手の中に変わらずある、白い包みの箱。
香穂子の気持ち。
のろのろとエントランスの階段を上る。荷物は教室に起きっぱなしだ。
自分の教室まで行く間に、二年二組の教室の前を通る。今までは意識したこともなかったが、最近はこのクラスに香穂子がいることをぼんやりと思う。
今も香穂子のことを思いながら、二年二組の前を通ると中に人の気配を感じた。
足を止めた土浦が、もしかして、と思ったことは「ああ、もうっ! わたしってバカ!?」という大声で裏付けされた。
教室の後ろのドアは開かれたままになっていて、そこから中を覗き込むと、教室の中央よりの席に座っている香穂子の姿があった。
土浦は息を吸い、ネクタイの結び目に指をかける。
「日野」
意を決して話しかけたら、香穂子の体が不自然な形で固まった。
コツコツコツと響く足音を気にしながら、ゆっくり香穂子の方へ近寄る。香穂子は振り向かないまま。
「チョコレート、ありがとな」
机一つ分間に置いたところで足を止めると、その背中に話しかけた。
「………どういたしまして」
香穂子の声までもがやや固くなっている。
「あの、さ」
意味もなくネクタイの結び目に手を持って行ってしまう。
「俺、期待していいか。お前のくれたチョコレートは、他のと違って特別だった、って」
香穂子が振り向かないでいてくれて、助かったと思った。きっと、今顔が真っ赤になっているに違いないから。
だが、土浦の思い通りにはいかない。
香穂子が席を立ってくるりと振り向いたからだ。
その顔には泣きそうな、でも嬉しそうな笑顔。
香穂子ははっきりと頷いた。
知らず知らず強張っていた土浦は破顔一笑する。
―――しかし、まるで中元か歳暮のようだな。みんなに配って回ってるのか? ご苦労だな、義理チョコってのも。
あんな言葉を言ってしまったのも、どうしてなのか自分でもわかっている。
他の奴らと同列なのが、気にくわなかったからだ。
もう、ずっと、それこそ自分では気づいていなかったけれど、香穂子にとって別格の存在になりたかったのだと、ようやくわかった。
「わたしもちゃんと言えば良かった、って今になって思ってて………」
「まったくだ」
否定しなかったら、香穂子はぷっと膨れたがすぐに笑顔に取って代わる。
「俺が偶然気づいたから良かったものの、もし気づいてなかったらどうするつもりだったんだ」
「それはその時かな」
それを聞いて、土浦は心から気づいて良かった、あの時火原が話しかけてくれて良かったと思った。
「じゃあ、帰るか」
「うん!」
他愛もない話でも、楽しい時間を過ごしながら香穂子を自宅まで送って行くと、今度は土浦の姿が見えなくなるまで見送るという香穂子に、土浦は一言残すことにした。
「来年からは、義理でも何でも、他の男にやるなよ」
言葉の意味を考え始めた香穂子に軽く手を上げると、土浦は素早く身を翻し足早に香穂子の元を離れた。
顔が赤くなっていたことを悟られたくなくて。
INDEX |