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ふわりと漂う甘い匂い。この匂いを響也はよく知っている。
その匂いは、台所から漂ってきていて、玄関にまで届いていた。
菩提樹寮。ここへ越してきたのは、二週間前のこと。最初は足を踏み入れることさえ躊躇うほどだった、幽霊屋敷と見間違えてもおかしくない寮である。今はそれにも慣れた。新しい場所での生活リズムもなんとか整ってきた。
匂いを辿りながら、台所へと向かう。
だが、この匂いを作り出した張本人の姿はどこにもなかった。あるのは、匂いを漂わせているそのものばかり。
オーブンから取り出されて、網の上に重ならないように並べられたそれは、熱を冷ますために、台所でも風通しの良い場所に置かれている。
丸いそれは、カントリークッキー。
もちろん、かなでが作ったものだ。この寮でこんなことをするのはかなでしかいない。
「暢気だな」
今は時間を惜しんで練習すべき時ではないのか。
したくもない練習に振り回されている響也としては、その暢気さに苛立つ。いったい誰のために練習していると思っているのか。かなでが巻き込んだからじゃないか。
ふつふつと怒りが込み上げてきて、まだ冷め切っていないクッキーを一つ頬張る。噛み砕きながら、何故暢気にかなでがクッキーを作ったのか、その理由に思い至る。
それは今日の午前中のこと―――。
「へえ。かなでちゃんって料理が得意なんだ」
大地が心から感心したように言う。響也からすれば、曲者としか思えない笑みを浮かべながら。
「得意ってわけじゃないですけど、作るのは好きなんです」
はにかみながら応えるかなで。何故、はにかむ必要がある。
「お菓子なんかも作ったりするんだ?」
狭い練習室には響也とかなでと大地の三人。
音を合わせようと集まったにも関わらず、ひとしきり練習して問題点も多々あることがわかっているのに、大地は遠慮なしにかなでに話しかけてばかりだ。一方のかなでも嬉しそうに応えている。
会話に置いていかれている響也としては、練習しないのなら帰りたいところだが、それを言い出すタイミングさえ見いだせない。問題点が多々見受けられるアンサンブルなんだから練習しよう、なんて言うのは以ての外。それじゃあ、響也ばかりが真面目みたいだし、響也がやりたいみたいじゃないか。アンサンブルをやりたいのはかなでで、響也はそれにつきあわされているだけなのだ。
「お菓子を作るほうが好きです。小学生の頃からいろいろ作ってたんですよ」
「得意なのは?」
「えーっと………クッキーかな。みんな美味しいって言ってくれるんです」
「そうなんだ。俺も食べてみたいなぁ」
「いいですよ」
かなではあっさりと請け合った。
「今度作って来ますね」
その今度が、当日とは。
張り切りすぎだ。
響也はまた一つクッキーを頬張った。それを飲み込まないうちに次のクッキーへと手をつける。
無性にむしゃくしゃしている。クッキーを頬張れば頬張るほど、むしゃくしゃというか、むかむかの度合いがどんどん増していく。
それを押さえ込もうとするようにクッキーを次々と頬張る。
結局、さほどの時間を要することなく、クッキーを平らげていた。
台所には、甘い匂いが残るばかり。それも程なく消えてしまうことだろう。
胸のむかつきはいつの間にか収まっていた。
………単に空腹だっただけなのだろうか。
しかし、そうではないことは、頭のどこかでわかっていた。
ただ、それが何であるのか、今の響也にはわからない。
そのむかつきの正体を響也が知るのはもう少し先の話―――。
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