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059.読書

(日野先輩の音、すごく綺麗だった………)
 昨日終了した第二セレクション。それが一番印象に残った。
 技術的にはやっぱりまだ不安定なところがある。けれども、それを補って余りあるほど、香穂子の音色は綺麗だった。聴衆を惹き込む何かがその音にはある。それが何であるのか、今の志水にはわからない。
 何か特別な技でもあるのだろうか?
 そんなことを取りとめもなく考えながら、座り心地のいい場所を探し、一冊の本を抱えて森の広場を歩く。周りから見ればふらふら歩いているようにしか見えなくても、志水自身はちゃんと目的を持っているのだ。
 その足がぴたりと止まる。
(ここがいい)
 そこはベンチも木陰もない場所。けれども陽光はまだ柔らかいし、この光を浴びながらの読書はとても気持ちがいいに違いない。
 早速とばかりに腰を下ろそうとして、留まった。
「日野先輩………」
 今の今まで思いを馳せていた当人がそこにいた。
 香穂子はベンチの一つを占領して、熱心に読書をしている。本には真っ白のカバーがかかっていて、何の本なのかわからない。ちょっと薄めの本だ。
 何の本であるのか気になって声を掛けることにした。
「こんにちは」
 志水の挨拶に香穂子が顔を上げる。心なしか目が赤いようだ。
「志水君。こんにちは」
「何の本を読んでるんですか?」
 真っ先に気になったことを質問する。
「これ?」
 香穂子は自分が持っている本に視線を落とし、それから志水が持っている本に気が付いたようでそれをちょっと見つめてから、恥ずかしそうに小さな声で答えた。
「恋愛小説」
「はい?」
「あ、あのね。友達が面白いからって貸してくれたの。ベストセラー小説なんだよ。それでちょっと気になってて読み始めたらハマっちゃって」
「はぁ………」
 頬を赤くしながら、志水に内容までこと細かく説明してくれる香穂子を目の前に、志水は自分の思考にはまり込んでいく。
 てっきり音楽関係の本だとばかり思っていた。だから気になったのだ。読んだことがなさそうな本だったし、面白そうなら是非読んでみたかった。
 だが、違っていた。
 恋愛小説など、生まれてこの方読んだことなどない。読もうと思ったこともない。
 恋愛に興味がないというわけでもないが、今は恋愛よりも大事なことがある。志水にとって、今は恋愛よりも音楽のほうがずっとずっと大事だ。もっと言えば、このコンクールが最重要事項だ。
 よりよい演奏を。
 他の参加者たちの音楽に触れて、その思いは更に強くなっていた。
 どうしたら思い通りの演奏が出来るだろう。
 どうしたら聴衆の気持ちを惹き付けるような演奏が出来るだろう。
 そう、香穂子のように───。
「………………………………」
 志水は目の焦点を香穂子に合わせた。
 香穂子はついさっきまで小説について何かしらと一生懸命説明してくれていたようだ。今は頬を赤らめたまま、志水の様子を窺っている。
「志水君?」
 反応がないので不安になったのだろう。とうとう呼びかけられた。
 だから、応えた。
「その本。僕も読んでみたいです」
「えっ?」
 香穂子の目が丸く開かれる。
「読み終わったら教えてください。先輩のお友達に借りに行きますから。それじゃ」
 ぺこりと頭を下げて戸惑ったままの香穂子に背を向ける。
 さっき見つけたベストポジションへ今度こそ腰を下ろし、持っていた本のページをめくった。
 恋愛小説なんて読んだこともない。読もうと思ったこともない。
 だけど、読んでみようと思った。
 何しろ香穂子が読んでいたのである。
 人を惹き付ける音色を奏でる香穂子が。
 自分との違いは何だろう。
 技術は志水のほうがずっと優れていると思う。
 けれども、香穂子のような音色は志水には奏でられない。
 香穂子の音色の理由を知りたい。
 その理由が、香穂子が読んでいた恋愛小説にあるような気がしたのだ。
 恋愛も、恋愛小説も、志水がまだ知らないもの。
 それを少しでもわかったら、香穂子の音色を少しは理解できるようになるだろうか。
 軽やかに優しく響く、香穂子の音色を。

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うちでは珍しい水日! バレンタインの話以来、2作目です。しかも甘くありません。ただ、これから甘くなるかも? という展開です。今は香穂子の音色が気になる志水だけども………、という。最初は、冬日にしようかと思ったんですが、イマイチ盛り上がらず(ちなみにこの場合は、香穂子が冬海ちゃんに恋愛小説を貸すという設定………あ、セレクション後とかで志水が冬海ちゃんを意識し出すきっかけの恋愛小説、というのもアリだったか!………そのうち描くか)。

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