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「ねっ! もうすぐ月森君の誕生日だよね!」
そう言い出したのは天羽だ。
留学のために月森が日本を離れてからほぼ一ヶ月。初めて、一緒にお祝いできると思っていた誕生日に、その当人が不在。
留学のことはちゃんと割り切って考えているが、それでも寂しいと思ってしまう。
「うん」
「何かお祝いするんでしょ?」
「うん………まだ、何にするか決めてないんだけど………」
早く決めなくては、とは思っている。遠い空の下にいる月森へ誕生日にプレゼントを届けるには、一週間はみておかないとならない。となると、もう今週の内に決めてしまわなければ。
「香穂がひとっとびすれば、それだけで大喜びしそうだけどねぇ」
それが出来るのなら香穂子だってそうしたい。何しろ会えるのだから。むしろ大喜びするのは香穂子のほうだろう。
だが、月森はそんな香穂子の姿を見たら、顔をしかめるかも知れない。こんなところへ来ている暇があるのなら、練習をしろ、と。
「………ああ。言いそうだねぇ、そんなこと」
天羽がため息混じりに頷いた。
「何がいいのかねぇ………」
新緑が眩しい季節。森の広場でお弁当を抱えて、二人で唸る。
「………あ………こんにちは」
ゆったりとした声が背後から掛けられる。振り返ると、志水がゆらゆらと立っていた。手には広げられた本。どうやら歩きながら読んでいたらしい。何度危ないと言っても直らない癖だ。
「あ。ねぇねぇ、志水君。誕生日プレゼントに何欲しい?」
天羽が唐突に問いかける。
「僕………ですか? 僕、誕生日、もうすぐだったかな………?」
「違う違う。志水君じゃなくて、月森君」
「ああ………月森先輩………………やっぱり日本では聴けない音とか聴いてるのかな………いいな………」
志水の思考が脱線していこうとしているのを天羽が慌てて留める。
「だから、その月森君が誕生日だから何かプレゼントしたいなって思ってるんだ。何かいい案ないかな?」
「プレゼント………楽譜が、欲しいです………。そういえば、僕も五線紙がなくなってたな………購買部へ、行かなくちゃ」
相変わらず、マイペースである。
だが。
「合奏とか、いいですね。僕、この間、いい音楽を聴きました。あれなら、月森先輩も好きかもしれません」
ちゃんと考えてはいたらしい。
「合奏かぁ………」
「いいんじゃない? 生演奏は無理だけど、CDとかに録音してさ。喜ぶんじゃない?」
「そうかな?」
だんだん乗り気になってくる。
「うんうん。火原さんとか柚木さんとかにも声をかけてさ。アンサンブルメンバー大集合ってことで。楽しくなってきたー!」
天羽のテンションもどんどん高くなっていく。
「よし! あたしみんなに声かけるからさ! 香穂は曲を選んでよ。月森君が好きそうなやつ!」
「………楽しそうです」
志水も微笑んでいる。
「決まり! じゃ、そういうことで!!」
天羽の行動力は毎度の事ながら舌を巻く。
翌日の放課後には、一人も欠かすことなくアンサンブルメンバーを揃えた。土浦に加地、志水と冬海はともかくとしても、火原と柚木さえ集合してくれている。
「なんだか、このメンバーで集まると、思い出しちゃうね」
火原がそう言ったが、まったくの同感だ。
ただ、ここに月森だけがいない。
そのことをよりいっそう強く感じてしまう。
みんなで集まることが出来て嬉しいと思うのに、同時に泣きそうな気分にもなる。
「それで? 何を弾くんだ?」
この面々の中で一番面白くなさそうな顔をしている土浦が促す。
「うん。それはもう決めてきちゃったの………断りもなしにごめんなさい」
先に、香穂子はみんなに頭を下げる。
「そんな、日野さんが謝ることじゃないよ」
「そうだね。それに、日野さんが選んだのなら間違いも無いだろうし。何より、月森君はそのほうが嬉しいだろうから」
加地と柚木が次々に言う。その言葉に、香穂子はホッと表情を和らげる。
曲目は「ケンタッキーの我が家」と「ハンガリア舞曲第5番」。いずれも、アンサンブルで弾いたことのある曲だ。充分な練習時間が取れない以上、すぐに合わせられる曲となると、かつてみんなで散々練習した曲から選曲せざるを得なかった。
そして、それはいずれも、ヴァイオリンは香穂子の一本だけ。
本当は、月森が好きな曲を選びたかった。だが、それには月森がどうしても必要だった。今、ここにいない彼が―――。
「よし、それじゃあ始めるよ~!」
録音役を買って出た天羽が仕切る。
「ちょっと待て! 少しくらい合わせる時間を寄越せ」
慌てて、練習室のピアノの前に座る土浦が叫ぶ。
「そうだね。僕もフルートを手にするのは久しぶりだから、少しは練習したいかな」
「練習室、もう一つ借りられたら、それぞれに練習出来るんだけどなぁ………」
その難しさは去年まで高校生だった火原も知っているから、それは単なるぼやきに終わる。
しかし、練習はさほどの時間を要しなかった。ともかく、一度は必死で練習した曲なのである。勘を取り戻すもの早い。
先に「ケンタッキーの我が家」を録る。
引き続き、少しの練習を挟んで「ハンガリア舞曲第5番」。
「オッケー?」
天羽の声に、全員が満足げに頷く。「ハンガリア舞曲第5番」が好きな志水はより嬉しそうに微笑んでいる。
「ありがとうございました!」
香穂子ががばっと頭を下げた。そして、そのまま暫く上げられなかった。
こみ上げてくるものがあったからだ。
演奏をしているとき、当時のことを思い出してしまった。何度も繰り返した練習のこと、解釈の違いで衝突したこと。曲を奏でたときに付随する思い出はまだ生々しい。そして、その時に月森と交わしていたやりとりのことを、連想せずにはいられなかった。月森とは一緒に練習しなかった、この曲でさえ、月森のことを思い出させる。
何もかもが、香穂子を月森へと導く。
そうなると、堪えられなかった。
まだ、この体は月森がいないことに慣れてはくれない。
「月森先輩、喜んでくれるといいですね」
冬海が柔らかい声と一緒に、香穂子の腕に触れる。
「うん………」
ようやく顔を上げると、少し滲んだ視界の中に、香穂子を優しく見つめる顔がたくさんあった。
急に恥ずかしくなって、顔を赤らめるともう一度だけ「ありがとうございます」と口早に言って、目元を拭った。
「じゃあ、帰ろうか! せっかくみんな集まったんだし、どこかで何か食べて帰らない?」
火原の提案に全員が乗った。
だが、香穂子だけはそれに「遅れて行きます」と応える。
「もう少し、やっておきたいことがあって」
「え? それなら、付き合うよ?」
すかさず名乗りを上げるのは加地である。
「ううん。一人で平気だから」
笑顔で加地の申し出を辞退して、香穂子は全員を見送る。
急に人口密度が減って、しんとした練習室に残ったのはヴァイオリンを抱えた香穂子だけ。
ピアノの上には天羽から預かった、レコーダー。
二、三度深呼吸をして、録音スイッチを入れた。
構えたヴァイオリンで奏でるのは「愛のあいさつ」。
最後に、一人で弾く曲を入れようと、決めていた。そしてその曲は「愛のあいさつ」以外になかった。
何度も、何度も。この曲はもう数えられないくらい、弾いてきた。だから、楽譜を見なくても弾くことが出来る。
目を閉じて、曲に身を委ねる。
この曲を、初めて月森に聴かせた時のこと。それから、一緒に弾いたあの日のこと。溢れる想いと共に、今度は涙が流れるのを止められなかった。
ただ、嗚咽だけは堪えた。それは、ヴァイオリンの音を不安定にする。それだけは、駄目だ。月森に聴かせるのだから、それだけは絶対にならない。
だが、最後の音を弾いて、その余韻が消えてしまった後にはもう留めていられなかった。
「………っく」
小さな、本当に小さな声が零れてしまう。
(いけない。まだ録音してる………)
涙を拭うのもそのままに、レコーダーのスイッチを押す。
そして、今度は遠慮無く泣き始めた。
月森が留学のために旅立ってから、ことある毎に、彼がいないことを認識していた。認識させられてきた。それは、うまく音を出せなくて相談しようとしたときや、楽譜を見に行ったときや、クラシックコンサートがあるというポスターを見たときなど。日常生活のほんの一部でふと、月森の不在を感じて寂しかった。
だが、今、月森がいないことが、全て刃となって全身に突き刺さっているような、そんな痛みさえ覚えている。痛くて、苦しくて、涙が止まらない。
どうして、傍にいないのだろう。こんな時こそ、傍にいて欲しいのに。傍にいてくれたら、それだけで泣き止むことができるのに。
いつしか、床の上にへたり込んで、泣いていた。
泣いても泣いても、涙は涸れない。
頑張ろうと思った。それに偽りはない。月森も遠い地でより腕に磨きを掛けていることだろう。それに劣ることのないように、香穂子も頑張るのだと、そう言って月森を送り出した。そのことに間違いは無い。
それでも。
頑張ろうと思うことと、寂しいと思うことは、乖離していた。何を持ってしても、その間を埋めることは出来ない。
窓から、赤く染まった光が差し込む頃になって、ようやく香穂子の涙は途切れた。
泣きすぎてぼうっとする。目は明日を待たずに腫れているようだ。何だか、顔も涙でごわごわしているような気がする。
「顔、洗おうかな………」
ヴァイオリンを片付けて、荷物を抱えると真っ先にトイレへ向かう。
涙の後を洗い流して、鏡の中に見た自身の顔は、それはそれはみっともなかった。目は充血しているし、やはり腫れぼったい。
何より情けない表情が思いっきり出ている。
もう、みんなは帰ってしまったかもしれない。それを残念に思うが、泣きはらした顔でみんなの前に出るのも躊躇われる。
「もう!」
ぱちん、と両頬を手で挟むと鏡の中の香穂子を睨み付ける。
それから、トイレを後にする。携帯電話を取りだして、着信を確認すると、天羽と冬海からメールが一件ずつ。いずれも、無理してこなくてもいいから、というような内容だ。香穂子のことを見透かして心配してくれているその気持ちが嬉しい。
心配を掛けたことを申し訳なくも思うが、有り難く言葉に従わせて貰うことにした。短い返信をそれぞれに返して、ヴァイオリンを抱え直すと、校舎を後にした。
夕闇が迫る空を仰ぐ。
この空と繋がっている、遠い空の下で同じように月森は空を見上げることがあるのだろうか。そこで、月森はどんな音色を響かせているのだろう。耳をすましても聞こえない月森の今の音色は、どんなふうに響いているのだろう。
そして、鞄の中にしまったレコーダーを思い出す。
今の香穂子の音色。
想いを詰め込んだ音。
それは、月森に響くだろうか。
この想いは、月森にちゃんと届くだろうか―――。
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