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練習室を出て教室に戻ってきたときには、既に六時半近くになろうとしていた。
既に明かりの消えた教室。静寂が支配する空間。薄暗い教室の中へ足を踏み込む。コツコツという、机の間を通り抜ける月森の足音だけが、そこに響く。
自分の席に着くと、体を椅子に預けた。思った以上に体が疲れていた。
第三セレクションは明後日。いつもより練習に力が入っていた結果だ。
瞼を閉じ、深く息を吸い込み、吐き出す。
閉じたばかりの瞼を窓の外へと向けた。
窓を音もなく伝う水滴。いつの間にか雨が降り出していた。しとしとと、雨脚は強くないものの、傘を差さずに外へ出てしまえば、しっとりと濡れてしまうような、雨。
月森は再び目を閉じた。
昨日耳にしたヴァイオリンの音色が甦る。
休日は公園や駅前に人が集まる。その分、校内は閑散とする。その中でも屋上は一際人が少ない。誰一人としていないこともある。人混みが苦手な月森は、休日は割と屋上で練習することが多かった。
だから、昨日もそうして屋上に上がった。
だが、そこには先客がいた。
香穂子だった。
青空の下、澄んだ音色を響かせていた香穂子は、口元に笑みさえ浮かべて練習していた。弾くことが楽しいと、そういうように。
屋上へのドアを開けた途端聞こえてきた音色に、月森は足を止めていた。
演奏が終わるのを待ち、グラウンドに向かって音を奏でていた香穂子のほうへ歩み寄っていく。
「ユーモレスクか」
「月森君!」
びっくりしたように香穂子が振り返った。
「ここで練習?」
「ああ。………今度のセレクションはその曲を弾くのか?」
「そのつもり」
構えていたヴァイオリンを脇に下ろす。
香穂子の練習する音を聴いたのは久しぶりだった。第二セレクションの前まではこれでもか、というほど聴かせられたのに、それ以降は全くといっていいほど、月森の前で練習をしていなかった。
正直、衝撃的だった。
第二セレクションから一週間。香穂子は信じられないくらい上達していた。
もちろん、技術的な面を見れば、月森のほうがレベルは上である。だが、人を惹きつけるという意味では香穂子は月森より優れていた。悔しいが、それは事実だ。何より、月森自身が惹きつけられているのだから。
「あ、そうだ。月森君。せっかくだから合奏しようよ! わたしこの間の曲練習したんだよ」
にこにこと香穂子が言うので、月森も頷く。香穂子との合奏は月森も楽しいと思っているから。
二人が奏でる音楽。
一人では出せない音。
「やっぱり月森君は上手だねぇ」
演奏を終えて、ヴァイオリンを下ろしながら香穂子が言う。
嫉妬も何も含まれていない言葉。心からそう思っている。
それが月森の気持ちを揺さぶった。
第一セレクション、第二セレクションとも優勝をした香穂子。
その香穂子にそう言われてしまうのは、居心地が悪かった。
ふと、人の気配を感じた。
どうやらうたた寝をしていたらしい。
頭を下げていたために、首筋が少し痛い。手でほぐしながら目を開けてぎょっとした。
目の前の机に頭が突っ伏していた。
顔を横に向けて、すぅすぅと寝息まで立てている。
暗い教室に溶け込んでしまう深い緑の制服。長い髪が机の上に流れている。
「日野………」
何故こんなところで眠っているのか、さっぱり想像がつかなかった。
腕時計で時間を確かめようと思ったが、さっきより暗くなっているせいでよく見えない。七時はもうとっくに過ぎているだろうが。
窓の外では、まだ雨が降っているらしい。雨音が耳につくようになった。
「おい、日野」
声をかけて見るが、反応はない。
顔を覗き込むと、脳天気な顔で眠っている。
椅子の背に身を預けながら、月森は腕を組むと軽く息を吐いた。
窓のほうへ視線を向ける。校内の外灯が窓ガラスに映っていた。明かりが揺れているのは雨がまだ降り続いているからのようだ。
そう言えば、傘を持ってきていなかったな、と思い当たる。
どうしようか。
一瞬そう思ったが、すぐに考えるのを止めた。
視線は依然として窓の外に向けられたままだったが、意識は香穂子のほうへ向いていた。
コンクールに参加することが決まってからの日々はめまぐるしく過ぎていった。
信じられないことに、他人にペースを乱され、そして掻き回されていた。それはとても我慢がならなかったが、月森自身ではもうどうしようもなく止められなかった。
その原因は今ここにいる。
香穂子。
基本も知らない全くの素人。彼女が奏でる音や、彼女の言動。それらすべてが月森のペースを乱していた。気にしなければいいのに、いちいちかんに障っていた。
何故なのか。
これほどまでに香穂子の音や言動に振り回されているのは何故なのか。
無邪気な言葉を投げかけてくる香穂子に、時々居心地の悪い想いを抱くのは何故なのか。
今は少しだけ、その理由を理解している。
ようやく視線を香穂子に戻した。
彼女は気づいているのだろうか。月森のことを振り回していることを。
無防備に寝顔を晒している香穂子。
目を覚ましたときの香穂子がどんな行動に出るのか。
思い描く月森の口元に、静かな笑みが広がっていた。
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