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月森には月森の進むべき道がある。
月森が目指す将来がある。
それは誰も邪魔することは出来ないし、邪魔をしてはならない。
邪魔をするということは、月森のことを否定してしまうことともなり得るから。
何より、月森が望まないことを、出来るわけがない。
だから、月森が遠くへ行ってしまうと、留学すると知っても、香穂子は月森のことを応援した。
最初から月森が自分とかなり隔たった位置にいた。
一生懸命追いつこうとしたけれど、なかなか距離は縮まらない。それどころか、とうとうおいて行かれてしまう―――。
一緒にいたいと、そう言うことは簡単だ。
だけど、そう言えば月森は香穂子のことをくだらないと思うだろう。
それは耐えられなかった。
そう思われないために、香穂子は笑顔で月森に接した。
私も頑張るからと、そう言って。
それなのに。
「君とこうして一緒に過ごすのも、あとどれくらいなのだろうか」
下校途中、寂しげに微笑みながら、そう漏らした月森。
何故、今になってそんなことを言うのだ。
もうずっと………月森が留学するとわかってから、ずっと、香穂子はそのことばかり考えていたのに。だけど、口にも、表情にも出すことは我慢して、そうやって今日までやってきたのに。
月森の言葉に対して、何も返せなかった。月森も感傷に浸っていたのかもしれない。お互いに言葉少ないまま、香穂子の家の前まで来てしまった。
「もう、着いてしまったんだな………それじゃあ」
月森は、香穂子に向き直る。
「さよなら」
それは、いつもの挨拶。別れるときは、いつもそう言う。
けれども、今日のその言葉は香穂子の感情のたがを外してしまった。
「さよならなんて言わないで!!」
家の前であることも、近所の目があることも、何も考えられなかった。ただ、感情のままに叫んでいた。
「何で、今になって、そんなこと言うの!? ずっと………ずっと、我慢してきたのに! 月森君が決めた道をわたしが邪魔をするわけにいかないって、ずっと堪えてきたのに!! もっと、ずっと一緒にいたいのに、離れたくなんかないのに!! 会えなくなるなんて、そんなこと想像だってしたくないのに―――」
最後の方は、声が引き攣れていた。感情が高ぶるあまり、涙が溢れてきて、声を詰まらせたからだ。
月森は唖然と香穂子を見ていた。
その目に映る自分を思って、香穂子は月森に背を向け、家の中に駆け込んだ。
もうこれ以上、月森の前に立っていることは出来なかった。このまま月森の前にいると、もっと泣き喚いてしまいそうだからだ。
そのまま自室へ飛び込み、ベッドへ倒れ伏す。
そして、わんわんと声を上げて泣いた。
泣いて、泣いて、泣き疲れて、ようやく落ち着いた。
はれぼったくなってしまった目を押しつけていた枕から離して、体を起こす。
少しすっきりしていた。
だが、落ち着いてみると、月森の前でなんという醜態を晒してしまったのだと、恥ずかしくなってくる。
(だめだなぁ………わたし)
月森も呆れたことだろう。あれでは、ただの駄々だ。思うようにならなくて癇癪を起こす子供と一緒だ。
確かに、自分でも無理をして月森に接していたとわかっている。けれども、それくらい出来なくてはならない。月森を困らせたいわけではないのだから。物わかりのいい女ではなく、月森のことを理解できる女でいたいと思っているのだから。
(あーあ………明日、どんな顔して月森君に会えばいいんだろ………)
制服から私服へ着替え、顔を洗おうと部屋を出る。
階下に向かいながら、なんとなく、家の中の雰囲気がいつもと違うことに気がつく。
だが、それがなんなのかわからないまま、まずは洗面所へ向かい、顔をさっぱりさせてから、リビングへと向かう。
「ようやく降りてきた」
そう声をかけてきたのは姉だった。
「帰って―――」
たんだ、と続けようとした香穂子の口は、そのままぽかんと固まった。
リビングのソファ。姉の正面に座って、香穂子に目を向けていたのは、月森だった。
「ななななななんで!?」
この状況が咄嗟に理解できない。
何故、月森が香穂子の家のリビングにいるのだ。
「門の外で途方に暮れていたから、お招きしたのよ」
さらっと姉が説明してくれたが、そういう説明が欲しかったわけではない。いや、確かに月森がここにいる理由ははっきりとしたわけだが、よりにもよって、さっきの泣き逃げ後の初顔合わせが、自分の家のリビングであることが何より受け入れがたいのである。
それは月森も同じようで、実に居心地の悪そうな顔をしている。
「すまない………こうなるつもりではなかったんだが………」
「そそそ、外で話そう! 月森君ももう帰らないと!! もう遅いし!!」
そういうわけで、何の心構えも出来ないまま、月森とまた顔を合わせることになってしまったわけである。
交差点まで一緒に歩くことにしたのはいいものの、どちらからも言葉を切り出さない。何を言えばいいのか、お互いに悩んでいるのだ。
だが、いつまでも黙ったままではいけないのだと、香穂子はわかっている。
そして、香穂子から話し出さなければならないのだとも。
「月森君、ごめんね」
謝罪の言葉がすんなりと口から出てきた。
「あんなふうに取り乱すつもりなんてなかったんだけど………困らせたよね。ごめんね」
「いや………俺のほうこそ、君にずいぶんと無理をさせていたんだな」
「そんなの! 月森君が気にすることじゃないよ! 月森君は月森君の考えた道を進んでるだけなんだから」
「だが、あれは君の本心なんだろう?」
そういわれてしまえば、否定は出来なかった。確かに、本心なのだ。ずっと、隠し秘めてきた本心。
「すまない。そうわかっていても、俺には何も出来ない………どうしてやることも出来ないんだ」
「いいって! わかってるから!! 月森君は何も間違ってないし、だから、謝ることもないの!! わたしが、ちゃんと出来なかっただけだから」
「香穂子」
少し強い口調で、月森は香穂子の言葉を遮る。
「いいんだ。無理をしなくてもいい。俺も、同じだから。君と離れがたく思っているのは、同じだから」
「月森君………」
思わず足を止めていた。月森もそれに合わせて足を止め、香穂子に向き直る。
「君とずっと一緒に音を奏でていられたら、と思う。だが、もっと高みを目指したいと思う。音楽に対して、俺は妥協したくない。それが君と離れてしまうことなのだとしても、そうせずにはいられないんだ。………わかってくれとは言わない。言えないから。だが、俺はこうすることしか出来ない………」
「………うん」
月森の視線を真正面に受けて、香穂子は頷くことしか出来なかった。
わかっているからだ。月森が、何より音楽を、ヴァイオリンを好きで、それに向き合うためには何も惜しまないとわかっているから。
そういう月森だから、香穂子は尊敬もしたし、追いつきたいと思ったし、好きになった。
「ちゃんと、わかってる」
取り乱したときの感情も本当。
だが、月森のことを応援したいと思っているのも本当だ。
香穂子は、笑みを浮かべて見せた。
少し泣きそうに見えたかもしれないが、それでも、それは香穂子が今見せることが出来る精一杯の微笑みだ。
「香穂子」
月森が一歩動いて、荷物を持っていないほうの腕を香穂子の背に回した。
香穂子もそれに応じて、月森の背中に両腕を回す。
「月森君。わたし、ずっと月森君を追いかけていくから。そうしたら、いつかまた会えるよね………」
涙で声がくぐもらないように、気をつけた。
やっぱり、無理していると思うが、それ以外にどうしようもない。無理をしてでも、月森のことを応援したいと思ってしまうから。
「ああ」
香穂子の背中に回された月森の腕には、頷くと同時に強い力が込められた。
「その時までには、月森君に注意されることのない演奏が出来るようになってるから」
「………君になら出来るだろう」
今まで、聴いたことのないような、優しくて柔らかな声だった。
堪えていたものが溢れそうになるのを、必死で抑えなければならなくて、香穂子は、ぎゅっと顔を月森の肩に顔を押しつけた。
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