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―――千秋。
軽やかで柔らかい声。
彼女が奏でるヴァイオリンの音だけでも、千秋を魅了するには十分だったというのに、久しぶりに会ったかなでは、予想外の音の置き土産をしていってくれた。
最初に名前を呼んだのは千秋のほう。
ちょっとからかってやろうかと思ったのだ。
久しぶりだったから、ちょっと浮かれてもいた。
なのに。
(まったく………)
あの日から、何度も勝手に再生されてしまう。
―――千秋。
「千秋」
こんな、聞き飽きた男の京都弁じゃない。
「聞こえとんのやろ、千秋」
二回目に名前を呼ばれて、千秋はようやく瞼を押し上げた。部屋のソファに足を延ばして横になっていた。
「何だ」
かなでとの思い出に浸っていたいところを邪魔した蓬生を半ば睨みつける。
「怖い顔しとったら、小日向ちゃんが逃げてってまうよ?」
曲者感たっぷりの笑みを浮かべる蓬生がまったくもって忌々しい。悪くない気分だったのに、ぶち壊してくれる。
「ここにはいないヤツの反応を心配したって何にもならないだろうが」
蓬生は向かいのソファに座り、足を組む。
千秋もようやく体を起こした。
二人の間にはローテーブルがある。その上に乗っている一組のティーカップにはあと一口ほどの紅茶が残っていた。
呷るように飲み干したが、すっかり冷めていた。
「そんなに会いたいんなら、会いにいけばいいんとちゃう? 新幹線であっという間なんやろ」
自分でそう言ってたやん、と蓬生が言葉を続ける。
「芹沢も鬱陶しゅうてかなわへんって言いよったよ」
「なに?」
「副部長。私はそんなことは言っていません」
芹沢の声がすかさず飛んでくる。その手にあるトレイには二人分の紅茶の用意がなされていた。
「俺様千秋が何、遠慮しとん」
「遠慮なんかするか」
芹澤の手によって、それぞれの前に置かれるティーカップからは湯気と香りが立ち上っている。
遠慮などしていない。
「大体、誰が会いたいなんて言った」
「なら、会いたくないのん?」
「その手には乗るか」
くいっと、ティーカップを傾けた。
「なーんや。つまらん」
蓬生は心底つまらなさそうにソファの背に体を預ける。やはり、暇を持て余して千秋をからかいたかっただけのようだ。
「会いたくて焦れて余裕のない千秋を見てみたいわ」
「生憎だったな」
そんなところ。
いくら、蓬生にだって見せられるか。
余裕がない?
そんなもの、つい一週間前まではなかった。
夏休みが終わると共に、横浜へ向かった面々で神戸へと戻ってきた。かなでは横浜での生活がある。そんなことはわかりきっていたし、覚悟はしていた。
だが、理解していることと、想いは別物だ。
日を追う毎にかなでがどうしているか気になる。電話をすれば言葉を交わすし、そうすればかなでが今どうしているか知ることが出来る。
しかし、それだけだ。
声だけ。
顔の入った写真を送れ、なんて言っても送ってこないし。
そうこうしているうちに、あっという間に三週間が過ぎていた。我慢は出来ていた。
だが、一度気付いてしまったら、居ても立ってもいられなくなった。かなでと出逢ってから過ごした時間が三週間だったことに。
たった三週間で、かなでは千秋にとって忘れられない女になったのだ。
そして、千秋は提案した。神戸に遊びに来いと。
おまけ付きなのはしょうが無い。いきなり一人で来いなんて言ったところで、かなでのことだ。尻込みするのは目に見えている。変なところで大胆なくせに、妙なところで物怖じするのだ。
会えたのは、たった二日間。
だけど、かなでは大きなお土産を置いていったというわけだ。変なところで発揮する大胆さがもたらしたものと言える。
その特別な音と声は、今の千秋を満ち足りた気持ちにする。
ただ。
これがいつまで保つのかは不明だ。多分、それほど長くはないだろう。
(そうなったら)
今度は、こちらから逢いに行く。
自然と口元に笑みが浮かぶ。
―――我ながら、よく我慢してやがる。
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