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ぱたぱたと軽い足音がサロンから離れている。それが誰のものなのか、確認しなくともわかる。東金千秋は紅茶の入ったカップを、笑みを浮かべた口元へと運ぶ。
その後に、静かな足音がサロン内に入ってくる。これも振り向かずに誰なのかがすぐにわかる。
「そこで、小日向ちゃんに会うたよ。なんや、こそこそしとったけど、千秋何かしたん?」
土岐蓬生が千秋の斜め前に座る。
「何も。むしろ何かしたのはあいつのほうだ」
笑ったままで言う千秋の様子に蓬生は肩を竦める。
「それでええん? 千秋、小日向ちゃんのことめっさ気に入っとんのやろ? 俺ら、もうすぐ神戸に帰らんといかんよ」
「いいんだよ。大会が終わるまでは待っててやるさ」
カップの中の紅茶を飲み干すと、千秋は椅子から立ち上がった。
「おやすみ」
蓬生の声に手を上げて返すと、男子寮のほうへ足を向ける。
昨日。
全国学生音楽コンクールのソロ部門の決勝戦があった。アンサンブル部門では、セミファイナルで小日向かなでの属する星奏学院に敗したが、ソロ部門は優勝をもぎ取った。それは意外でもなんでもなく、当然のことだと受け止めている。
だが、最後の一押しをしてくれたのは、かなでだ。
冗談のつもりだったのに、真に受けてかなではそれをした。「勝利のキス」なんて、そんな言い方をしたのは、思いの外、それが嬉しくて照れくさかったからだ。
それは間違いなく千秋を勝利へと導いた。惚れた女の願いがこもったキスを受けておいておめおめと負けるわけにはいかなかった。しかも相手は天音学院の冥加玲士。薄ら寒くなるほどかなでに執着していた男。こてんぱんとは言えないが、一矢報いた感はあった。
万々歳、といったところで、千秋は大変気分が良かった。
さて、千秋にとっての勝利の女神とも言うべきかなでであるが、昨夜あたりから何だか様子がおかしいのである。
最初は何だと思ったが、すぐに原因に思い至る。それがわかると、決勝が終わるまで放っておくことにした。決勝戦にはともかく全力を注いで欲しいという、珍しくも、相手を立てた思いからである。
しかしながら、千秋のその滅多に無い思いやりは敢えなく無駄となってしまった。
翌日の昼。
少し菩提樹寮でのんびりしようと戻ってきたところで、なんとかなでと遭遇してしまったのだ。それが玄関で、どちらも隠れようが無く、かなでは非常に気まずそうな顔をしている。その頬が心なしか赤らんでいるのを見て、千秋の中にむくむくとかなでを構いたい気持ちがわき上がってくる。
「こ、こんにちわ」
かなでがやけに緊張しているのがまた微笑ましい。
大体、かなでを構うのが楽しくて仕方がないのに、それを抑えていたのである。歯止めはかなでの様子にあっさりとどこかへ飛んでいってしまった。
「もう行くのか?」
わざとドアの前に立ちふさがるようにして、かなでの行く手を遮る。
「だって、練習しなくちゃ」
おろおろと視線を彷徨わせているのがまた可愛い。
「なぁ。どうして視線を逸らしてる? 俺のことを避けてるだろう」
「そそそそそんなことない、です!」
その慌てように、吹き出したくなるのを堪える。
だが、その後、驚くと共に感心してしまった。
普段は頼りなげにふらふらしているくせに、ここぞという時の度胸はあると認めている。その度胸でもってして、千秋と視線を合わせてきたのだ。真っ向勝負を挑んできたわけである。ここで逃げないのがかなでらしいし、そこがまた気に入っているところだ。
ただ、半ば睨み付けるようにして千秋の目を見ている、その顔がさっきより若干赤みを増しているところがこれまた可愛い。
「へぇ………てっきり、恥ずかしくて顔も合わせられないんだと思ってたぜ」
千秋のほうから顔をぐっと近づけると、かなではなんとか動かずに踏みとどまっていた。少しくらいは後ろへ引くかと思っていたのだが。
「それなら、今度は俺が勝利のキスをしてやろうか?」
ひゅっとかなでが息を呑んだ。みるみるうちに顔がこれ以上なく赤くなっていく。何か言おうとして、何も言えない口がぱくぱくと開閉を繰り返している。
なんだか、そのうち呼吸困難を起こして倒れそうな気がしてきたので、この辺りでからかうのはやめにした。
「冗談だよ」
にやりと笑ってから、千秋は身を引いた。
かなでが明らかにホッとした。ちょっと面白くない。
でも、まあいい。
体をずらして、かなでが外へ出られるだけの空きを作る。
「頑張ってこいよ。応援してやってるんだからな」
「い、言われなくても頑張ります!」
少々のぎこちなさを残したまま、かなでは千秋の横をすり抜ける。
その瞬間。
「その代わり、大会が終わったら覚悟してろよ」
耳元で囁く。
かなでが、ドアを開けかけたままでぴたっと動きを止める。
「お前、俺のことを意識しているだろう。ってことは、俺を特別な男として見てるってことだ。今はそれで満足してやる」
恐る恐る、かなでは首を巡らせて千秋のほうを向く。
再び視線が合うと、今度はものすごい勢いで逸らして、そのままの勢いでドアの外へと駆け出して行った。
とうとう堪えられなくなって、笑い声を上げる。
ああ―――まったく。今すぐ神戸へ連れ帰りたくて仕方がない。
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