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あまいにおい

「今日のパンは何にしよう~」
 近道をしながら、火原は空腹を抱えて購買部へと急ぐ。早く行かなければ、大好きなカツサンドが売り切れてしまう。
 だが、その足が歩みを止める。
 それは珍しく、甘くていい匂いが火原の鼻腔をくすぐったからだ。
「いい匂いだ~」
 それは特別棟から匂ってくるようだ。
 ちょうど、今その真裏を通り抜けようとしていた火原は、匂いの元を辿って歩き始めた。 カツサンドの事は忘れていた。
 匂いの元はすぐにわかった。
 特別棟の一階にある家庭科室からだった。火原とは全く無縁の場所である。この部屋で火原は授業を受けたことはないが、ここでたまに調理実習が行われていることは知っている。
 ふらふらと火原はその窓のところへと辿り着いた。
 中を覗くと、普通科の制服を着た女の子たちが楽しそうにおしゃべりをしながら、三々五々に部屋を出て行くところだった。
 その中に見知った顔を見つけて、思わず声をかけていた。
「香穂子ちゃん!」
 名を呼ばれた香穂子はすぐに火原を見つけて、荷物を抱えたまま走り寄ってきた。
「家庭科の授業だったんだ」
「はい。クッキーを作ったんですよ」
 香穂子は抱えている荷物の中から、赤いリボンで口を閉じている、透明のビニール袋を火原に見せた。その中にはチョコレート味とプレーン味のクッキーが入っていた。
「美味しそうだね」
「あ、じゃあ、これどうぞ」
 香穂子は何の躊躇いも見せずに、その袋を火原のほうへ突き出す。
「え? いいの? 香穂子ちゃんのは?」
「まだありますから」
 にっこり笑って、香穂子は荷物の中に紛れている袋を示した。
「じゃあ、遠慮無く」
 火原は満面の笑みを浮かべて、香穂子からクッキーを受け取った。
「ありがとう。大事に食べるね」
「そんな大層なものじゃないですよ~」
 謙遜する香穂子とはそこで別れて、本来の目的であった購買部へと改めて向かう。
「へへっ。お昼ご飯食べたらデザートにしようっと」
 すっかり購買部へは出遅れたかたちになって、カツサンドは残念ながら手に入らなかったが、今日はちっとも気にならなかった。
 なぜなら、香穂子から貰ったクッキーがあるから。
 零れて止まらない笑みをそのままに、教室へ戻ってまずは昼食を食べる。
 あっという間に全てを平らげると、今度はいよいよ香穂子のくれたクッキーだ。
「へへへ………」
 にやけ顔がなかなか抑えられない。
「なんだよ、火原。気持ち悪いな」
 見かねたクラスメイトが声をかけてきて、そして目敏く火原の手の中にあるクッキーに気がついた。
「お前、それもしかして手作り!? 誰から貰ったんだよ!? まさか火原がそんなものを貰うなんて!!」
 最後はちょっと火原としては疑問の残る驚きであるはずだが、それにすら気づかないほど火原は心が浮き立っていた。
「へへー。いいだろー。香穂子ちゃんから貰ったんだ」
「香穂子ちゃんって………あの普通科の子か」
 コンクール最中である今、香穂子の存在は良くも悪くも目立っていて、学内でも知らない人のほうが少ないほどだ。普通科からのコンクール参加者。音楽科の生徒が注目していないわけがない。
「なぁ、それ俺にも分けてくれよ」
「いやだよ」
 即座に答えていた。
 確かに断るつもりではいたが、何かを考えるよりも先に口が答えていたことに自分でも驚く。
「おれが貰ったんだから」
「何だよ、ケチだな」
 そう言い残していったクラスメイトは、だが笑っていた。どうして笑われているのかわからなくて、少しだけもやもやとしたがすぐにそのことについて考えるのはやめてしまった。
 別のことが火原の中を占めてしまったから。
 手はクッキーの袋を開け始めている。リボンで締められていただけの袋は簡単に口を開く。
 中のクッキーに指を伸ばして―――やめた。
 じっとクッキーを見つめる。その口元にさっきまでの笑みはない。
「真剣な顔でクッキーを見つめて、どうしたの?」
 今度、声をかけてきたのは柚木だった。
「うん………なんだか、もったいなくて」
「え?」
 香穂子から貰ったクッキー。そういえば、香穂子から何かを貰うのは初めてだ。ということは、これは初めて香穂子から貰ったもの。
 いい匂いのするクッキー。
 だけど、これは食べてしまえばなくなるもの。当たり前だけど、食べ物なんだから食べてしまえばなくなる。
 火原は元通りに袋の口をリボンで縛った。香穂子がやったように綺麗な蝶結びは出来なかったけれど、とりあえず、口は締まった。
「食べないの?」
「うん」
 火原はにこっと笑って柚木に頷いてみせた。
「大事にするんだ」
 柚木はそういう火原のことを微笑ましく思っているような、呆れも混じっているような笑顔で見たが、火原は気がつかない。
 嬉しくて幸せだというその気持ちが火原をいっぱいにしていたから。

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ちょっとリハビリも兼ねた小咄。第2セレクション中くらいの話。火原の愛称呼びがまだ「香穂子ちゃん」。火原は香穂子に対して特別な女の子として好きだ、という認識をしていない頃。ただ、これがきっかけで香穂子のことを意識しはじめるのもいいかな、と。カツサンドの事を忘れてしまうくらいに香穂子からクッキーを貰ったことが嬉しかったり、大事にしたいと思ったり。無意識に特別だと気づいているような感じで。匂いは甘くとも、内容は甘くない話でした。
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