[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
香穂子のヴァイオリンの音。会場一杯に広がっていく。ぴったりと閉じてある講堂の重い扉を全開にすれば、その音はきっと遠く遠くへと伸びていくだろう。もっともっとと高みを目指して。
目の前のステージでヴァイオリンを奏でている香穂子の姿から火原はもう目が離せなかった。口元に笑みすら浮かんでいる香穂子。弾くことが楽しくてたまらないと、彼女の顔が、身体が、そして音がそれを表している。
最終セレクション。今日がコンクール最後の日。四十日ちょっとしかなかったけれど、それぞれが頑張って臨んだコンクール。これまで過ごした高校生活のどの時間よりも濃密だった時間。ワクワクして、ちょっとだけドキドキして、概ね楽しかった。
概ね。
火原の出番はとうに終わっていた。香穂子の後にはあと月森が控えているだけだ。月森の演奏が終わったら、最終結果が発表になる。その結果が火原には見えていた。
きっと、香穂子が優勝する。
第一セレクションこそ振るわなかった香穂子だったが、それ以後の彼女の活躍はめざましかった。前回もあと一歩というところで月森に及ばなかったけれど、今日の演奏を聴いていると、今度は間違いなく優勝する。月森の演奏を聴いていないけれど、断言できる。
それほどまでに香穂子は成長した。コンクールが始まったばかりの頃、上手く弾けなくて悩んでいた香穂子を、火原のトランペットの音で励ましたのが、遠い昔のよう。
そして今は。
香穂子を遠く、感じていた。
楽しければいいと思っていた。いや、それは今もそう変わらない。楽しいと思えること。それは大事だ。
だが、それだけじゃ駄目だと言うことに、気付いてしまった。
行き詰まってしまった。
今まで自分はどうやって音を出していたのか、それすらわからなくなっていた。
ステージの上の香穂子は眩しかった。でも、目を逸らせない。
演奏が終わる。香穂子の演奏が終わるや否や、割れんばかりの拍手喝采が講堂を埋め尽くす。それだけでも、香穂子の演奏がどれだけ素晴らしかったかわかろうというものだ。
満場の拍手を受けて香穂子は笑顔で頭を下げた。しばらくじっとそうしていた。
火原はほとんど反射神経だけで拍手を繰り返していた。目線は香穂子から外せない。
鳴りやまない拍手の中、香穂子が顔を上げた。
目が、合った。
香穂子は一際、笑顔になったように見えた。
火原も笑顔を返した。
上手く、笑えていたかは自信がなかった。
「先輩、私ね。優勝したら言おうって決めてたんです」
練習を重ねた屋上で。
今、香穂子が火原の目の前に立っている。二人ともまだコンクールの衣装のままだ。
舞台袖に引っ込んだ途端、香穂子が火原を屋上へと導いた。
この窮屈な衣装を早く脱いでしまいたかったが、香穂子の後ろをついて行った。視線を落として。
火原の予想は外れなかった。香穂子は優勝した。
すごい。自分のことのように嬉しい。頑張っている香穂子を知っているから。
だけど、手放しで笑ってあげられなかった。
理由はわかっている。
だから、こうして目の前に立たれてしまうと、視線をどこに定めたらいいのかわからない………。
「私、先輩のことが好きです」
一瞬、火原の周りから全ての音が消えた。
嬉しい。
そう思うのに、そのはずなのに、どうしてこんなに心が弾まないのだろう。むしろ戸惑いを覚えるばかり。
香穂子が火原の事を好きだと言ってくれた。
何故?
まっすぐに火原を見つめてくる香穂子の視線を受け止められない。
だって、今の火原はとてもみっともない。満足に音も出せないし、ほとんど素人だった香穂子が優勝するまで頑張っていたのに、とてもそれに及ばない。
普通科とか音楽科とか関係ないよ、とそう言ったのは自分だけど、この状況はさすがに情けない。
このままじゃ駄目だ。とてもじゃないが、香穂子の気持ちに答えられない。
ざあっと、二人を強風が煽った。
周りの音が戻る。香穂子が小さな悲鳴を上げて、弄ばれる髪とドレスの裾を押さえた。
「ごめん!」
風の音が鳴りやむのを待たずして、火原は声を張り上げた。
「香穂子ちゃんがおれのこと好きだって言ってくれるの、すごく嬉しい。けど、おれ………」
それに見合うような答えを返せないよ。
その続きは言えなかった。
その代わりに、身を翻していた。
だから、気付かなかった。香穂子が目を伏せて、静かに息を吐き出したことに。
香穂子と別れた足で、火原は講堂の控え室へと駆け戻った。
そこには施錠を任せられている金澤が、全員の着替えが終わるのを待っていることを知っていたから。
「金やん!」
ものすごい勢いで突進してくる火原に、ほとんど反射神経だけで金澤は回れ右をしようとしていた。金澤にとってそれはあまりいいことではないのだと、面倒なことなんだと、直感が告げている。
「な、何だ」
半身を背けた状態で火原と対峙する。
「どっか、留学したい!」
「はあ!?」
腹の底から声が出た。
「ちょっと待て。お前さん、自分の言っていることわかってるのか?」
尚も叫ぼうとする火原を手で制して、金澤は言葉を続ける。
「わかってるよ! じゃなきゃ、こんなこと言わないよ!」
「どうしていきなり留学なんて言葉が出てくるのかが、俺には理解不能なんだが」
中途半場だった身体の向きを火原のほうへ向けた。
火原は僅かに頬を紅潮させて、肩で息をしている。目は真剣そのもので冗談で言っているのではないことは知れた。
「だって、このままじゃダメなんだ」
「何が」
「このままじゃ、おれ。おれ………」
香穂子と向き合えない。
香穂子と一緒に居て恥ずかしくない男になりたい。
香穂子に、応えたい。
「あのな。お前さんの向上心は認める。このコンクールで思うところがあったんだろうとは思うがな。留学以前に英語の成績はどうなんだ」
「ふえ?」
「ふえ、じゃなくてな。言語に不自由してたら話にならんだろう」
「う………」
「別に、留学じゃなくても上手くなりたいなら、この学校でも充分じゃないか」
「ダメだよ! それじゃダメなんだ!」
それじゃ、今と変わりない。
香穂子が近くにいる状態じゃ、香穂子のことばかりを気にして、練習にならない。それが容易に想像出来る。
今は距離を置いたほうがいい。距離を置いて、自分の音楽と向き合いたい。
香穂子と並んでも劣ることのない、自分の音に自信を持ったトランペットを奏でたい。
「ダメなんだ………」
火原の口調が弱くなる。それと同時に頭も垂れた。
「ダメダメつってもなぁ………」
しょぼくれた火原を前にして、金澤は左手を白衣のポケットに、右手では軽く頭を掻く。
「現実問題としてな………」
言葉を継ごうとするが、意気消沈している火原に上手い言葉が出てこない。
代わりに、金澤は深々とため息をついた。
もう、ずっと火原と口を利いていなかった。
最後に言葉を交わしたのは………そう、コンクールの最終日。屋上で、香穂子が火原に告白した時。「ごめん」と言われたその時。
あれはまだ五月のことだったから、もう三ヶ月近くにもなる。爽やかな風が吹いていた季節は、熱気に包まれる季節を過ぎ、秋の気配をそこここに感じる季節へと移り変わっていた。
あの日以来、コンクールの間はあれほど見かけた姿をぱったりと見なくなった。
コンクールまでは火原の存在すら知らなかった香穂子だ。元通りの生活に戻ったのだと思えば良かったのかもしれない。
でも、それは出来なかった。
もう出会ってしまっていたし、火原の存在は意識せざるを得なかったし、火原の奏でる音を耳で拾おうとするのも癖になってしまっていた。
ちっとも元通りではない。
それどころか、コンクールの時よりも香穂子の生活は乱されていた。生活というよりも、それは気持ちのほうであったけれど。
避けられているのかもしれない。初めはそう思っていた。
告白なんてしなきゃ良かった。そうしたら今まで通り火原と話すことが出来たのに。
だけど、あの時は今言わなければ、とそれしか考えていなかった。気持ちを伝えたくて、抑えられなくて。
一週間を過ぎた頃だっただろうか。天羽が廊下を駆けて香穂子にもたらした情報があった。
「火原さん、夏休みにホームステイするんだって!」
「ほーむすてい?」
鸚鵡返しに訊いた香穂子に天羽は説明する。
「何でも、金やんの友達の人のところでトランペットの練習を徹底的にやるつもりだって。進路のこととか、考え出したのかもね。あの火原さんも」
それを聞いて思い至ったのはコンクールの結果。
火原は最終セレクションで調子を崩していた。それまでの結果が良かったため、総合三位に落ち着いたが、最終セレクションでの演奏は、火原自身納得いくものではなかったはずだ。それで、どうにかしなければと考えたのがホームステイだったのだろう。
なのに。
香穂子は、自分の事しか考えていなかった。それを思い知らされた。
火原はもうあの時悩んでいたのだ。香穂子の告白に応える余裕などなかったのだ。
今思い返してみても、あの告白を取り消したい衝動に襲われる。なかったことにしてしまえたら。
でも、それはもう出来ない。
それ以来、香穂子も火原を、火原の音を見つけることを止めた。
そのまま夏休みに入り火原は無事ホームステイ先へと旅立ったことを、天羽から聞いた。
そして、あと数日で夏休みも終わる。
ヴァイオリンの練習のために、毎日のように訪れる学校の練習室。だが、その練習に身が入らない。いつもそのうちの一時間は、こうしてぼんやりと窓から空を仰いでいた。
何も考えずにいるつもりが、思考はどうしても火原の事へと向かっていく。出会ったときのこと、合奏をしたときのこと、掛けて貰った言葉の数々。驚くくらい、よく覚えていた。
「はぁ………未練たらたら」
窓際に寄せた椅子に横座りし、椅子の背に腕を乗せ、更にその上にこめかみを付ける。窓から見える空を横に見る。
白い雲がゆっくりと青い空を横切って行く。白と綺麗な青のコントラストは香穂子の目に眩しく映る。
火原に告白したこと。火原のことを思えば後悔してしまうけど、気持ちに偽りはない。今だってこんなに火原のことが気になる。会えなければ会えない分、会いたい気持ちが募っていく。もう、顔を合わせることもできなくても、それでも火原を好きだという気持ちは色褪せない。色褪せるどころか、どんどんはっきりと色づいていく。想いはどんどん強くなる。
もう自分ではどうしようもない。
二度と口にはしないと決めた想いだけど、想うことまでは止められない。
「あーあ!」
がばっと頭を起こして、そのままの勢いで立ち上がった。
室内は冷房が効いていたが、構わず窓を開ける。
ぬくい空気が緩やかに室内に流れ込んできた。
「ぅん~~~~~~っ!」
ぐっと両手を天井へ向け、背を伸ばす。
「私も、頑張らなくちゃ」
火原のことは気になるけど、そればかり気にしていては駄目だ。
この想いを忘れるつもりは毛頭ないけど、吹っ切らなくては。いつまでも引きずったまま歩くわけにいかないから。
「………って、頭では解ってるんだけどね」
思わず苦笑いが浮かぶ。
「言うだけで吹っ切れたら、誰もこんなに悩まないわよ」
椅子を離れて、ピアノの上に置きっぱなしにしていたヴァイオリンを手に取り、構える。
少しだけ音を出してから、一息置くと音を紡ぎ出す。
ガヴォット。
初めて火原と合奏をした曲。
楽譜なんて見なくても、もう指が音を覚えている。
一通り弾き終えた時だった。香穂子のいる練習室のドアが、控えめにノックされた。
「は、はい!?」
慌てた香穂子の応えに、ゆっくりとドアが外から引き開けられる。
それに続いて隙間から覗いた顔に、香穂子は息をのんだまま、その場から動けなくなってしまった。
「香穂子ちゃん、今、いいかな………?」
顔を覗かせたのは、火原だった。
息が詰まって返事もままならない香穂子の目の前にそろそろと火原が全身を現す。
どのくらいぶりに、その姿を見ただろう。どのくらいぶりに、その声を聞いただろう。
どのくらいぶりなんて、さっき考えたばかりだ。
「火原、先輩………」
火原が後ろ手にドアを閉めて、練習室内に立ってからようやく声が出た。しかし、それは掠れていて、はっきりと音にならなかった。
「久しぶりだね」
ドアを閉めたままの体勢から火原は動かない。ドアから離れて歩み寄ってくることもないから、香穂子との距離は縮まらない。香穂子もその場から一歩も動けずにいるし。
見上げる顔には、はにかんだ表情。心なしか、その頬が赤いような気がする。
それに、火原はこんな顔をしていただろうか?
造作が変わったとか、そういうことではない。何だろう。以前となんだか印象が違う気がする。顔つきが変わった、とでも言うのだろうか。どこが変わったの、と訊かれても応えられない。どこが、というわけじゃなく、雰囲気が違っているという感じ。
「元気だった?」
「はい………」
短い質問に短い応答。
久しぶりに会った人に対して、淡泊すぎる反応かもしれない。だけど、他に言葉を見つけられない。
久しぶりだから。
どうしよう。
ドキドキと心臓が大きな音を立て始める。それは、呼吸を困難にする。
今、わかる。
香穂子が、どれだけ目の前の人に、火原に、会いたかったのか。
目頭が熱くなり、目尻がじわっと濡れる。
「久しぶりで、何を話したらいいのかわからないや。あ、違う。話したいことがいっぱいで、どれから話したらいいのかわからないんだ」
瞬きを繰り返したが、目の雫を振り払うことはできなかった。
火原の顔をもう、ちゃんと見ていられない。ずっと見ていたいのに。
香穂子はさっと顔を伏せた。
「香穂子ちゃん!?」
「何でも、ないです………」
喉で言葉が詰まって、上手く声にならないのがもどかしい。
「だって………何でもないってことないじゃないか!」
だんだんだん、と荒々しい足音と共に火原が近寄ってくるのが解る。だが、香穂子がすっと一歩下がったのを見たからだろう。ぴたりと、足音が止まった。それでも伏せた香穂子の視界に、火原の靴の先が入る距離まで、近づいていた。
香穂子が動いていなければ、触れ合うほどに近く。
「何で、泣いてるの………?」
困ったような、戸惑う声。
こんな声、させたくないのに。
「泣いてません………」
それは嘘だ。
左手にヴァイオリンを、右手には弓を持っている状態では、顔を覆うことも、目尻を拭うことも出来ない。
香穂子の目からとうとう雫が落ちて床に水玉を作る。
「あー、もうだめだ!」
火原の叫ぶ声が聞こえたかと思うと、香穂子は身体を拘束されていた。火原の腕で。
まだ冷え切っていない火原の身体の熱が、香穂子に伝わる。
「ひ、火原せんぱっ………」
驚きの余り、涙も止まる。
「おれ、香穂子ちゃんにずっと会いたかった。でも、我慢しなきゃって。おれ、香穂子ちゃんと並んで恥ずかしくない男になりたくて。だから、ホームステイしてトランペット弾くことに集中したし、ホームステイするために英語も頑張ったよ。頑張って、香穂子ちゃんに見合うようになるまでは、香穂子ちゃんと会わないって決めて。だけど、香穂子ちゃんに会えなくなったら、会いたくて会いたくてしょうがなくて。ホームステイしてからは、毎日香穂子ちゃんのこと考えてた。トランペット弾くときも、香穂子ちゃんのことを思ってた。ずっとずっと香穂子ちゃんのこと考えてて………おれ、全然変わらなかったかも。香穂子ちゃんに並べるようにはなってないかもしれない。それでも、香穂子ちゃんの顔を見たくて、真っ先に学校に来たんだ。そしたら、香穂子ちゃんのヴァイオリンの音が聞こえてきたんだよ。嬉しかった。香穂子ちゃんの音を聴けたのも、香穂子ちゃんがここにいることも。だから、だから………泣かないでよ。おれ、香穂子ちゃんが笑ってくれるなら何でもするから。だから………」
香穂子を包む腕に力がこもる。更に火原の身体と香穂子の身体が密着する。
「先輩………」
長い長い、火原の言葉は香穂子にまた別の衝撃を与える。
香穂子が火原と会えなくて寂しかった時、同じように火原も思っていたことを初めて知った。
何故なら、あの日、香穂子は火原に振られたと思っていたから。
「先輩………?」
香穂子の肩に火原が顔を埋める。
その背に腕を回して応えたいけれど、香穂子の両手は塞がったままだ。
「おれ………香穂子ちゃんの気持ちに応えたい」
火原の声が少しくぐもって聞こえる。だけど、すぐ近くで、耳元で、その声は囁かれるから香穂子の胸に直接響く。
「や、そうじゃないや」
火原が顔を上げた。両手で香穂子の腕を掴むと自分の身体から離す。火原の身体のぬくもりが離れて、一瞬心細い気持ちになる。
火原はまっすぐに香穂子を見つめた。強い視線に、香穂子はその目から逸らせない。
「おれ、香穂子ちゃんが好きだ。もうどうしようもないくらい。香穂子ちゃんと並んでおかしいとかおかしくないとか、そんなの関係なくなるくらいに、香穂子ちゃんが好きだよ」
………ああ、もう。
この人は、どうしてこんなにも、胸をいっぱいにさせてくれるんだろう。
火原だからだと、わかっている。火原でなければ、香穂子もきっとこんなに、涙が溢れて止まらないほどに嬉しいなんて思わない。
「か、香穂子ちゃん!」
真剣だった火原の表情が崩れて、慌てたものになる。
「おれ、なんか変なこと言った!? ご、ごめんね!?」
香穂子の腕から離れた火原の手も右往左往している。
香穂子は首を激しく横に振ることで、火原の言葉を否定した。
「ち、違う………」
態度で表現しなければ、言葉が上手く伝えられそうになかったからだ。
「でも、今、香穂子ちゃんが泣いているのは、おれが何か言っちゃったせいだよね?」
香穂子はようやくそこでヴァイオリンを傍のピアノの上に置いた。代わりに手にしたハンカチで目尻を拭う。
「そうじゃないんです。確かに、先輩の言ったことが原因だけど………」
火原は口を縦に開けて更に謝ろうとしたが、先に香穂子が言葉を継ぐ。
「嬉しくて」
その一言に、今度は火原が固まる。
「嬉しかったんです。………先輩の言葉が」
気持ちが。
「えっと………」
火原が動き出す。
今、香穂子が言ったことを整理しようとしているのか、しきりに頭を掻いている。
「つまり、おれ、喜んでいいってこと?」
少し自信がなさそうな言い方に、ふっと笑みがこぼれた。泣き笑いの状態だ。
「はい」
でも、しっかり答えた。
「本当に?」
「本当に」
「本当に………」
それから十秒ほどまた動きを止めてから。
火原は叫んだ。
「おれ、今、すごく嬉しい! 今ならおれ、何だって出来そうだよ」
顔中、笑みでいっぱいにしている火原につられて、香穂子も笑う。涙はもう止まっていた。
「香穂子ちゃん、ありがとう!」
がばっと、火原は香穂子を両腕で抱き込む。
その勢いにしばし戸惑った香穂子だったが、やがて火原の背中に腕を回して自分のほうへ引き寄せるかのように、力を込めた。実際のところは力一杯に抱きすくめられて、これ以上なく近づきようがなかったのだけど。
INDEX |