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はじまりとおわりの言葉

 最後の言葉は今も記憶に残っている。
「さようなら」
 それが彼に告げた最後の言葉。
 あれからもう三年も経つのに、薄れることはない。
 年に二回、家に帰る度にこの空港に降り立つと、その時のことが色鮮やかに蘇る。一瞬、時間がその頃に戻ったよう気分にさえなる。
 今もそうだ。
 広いロビーを行き交う人たちの声は吹き抜けの天井へ拡散してしまい、やかましくはない。この喧噪はあの時と同じ。変わらない。
 目眩を覚えて、その場で立ち止まって瞼を閉じた。
 あの時、最後の言葉を告げたときの彼の表情が蘇る。
 笑顔だった。
 無理して作った笑顔。
 何年も付き合ってきた。好きで好きでしょうがなくて、一つ一つの仕草も見逃さなかったし、変化にも敏感だった。
 だから、わかった。
 その笑顔は頑張って作ったものだと。
 本当は、泣きそうな顔になってしまいそうになるのを、堪えているのだと。
 抱きつきたい衝動が襲った。
 泣かないで。
 そう言って、彼の背中に腕を回して、そのぬくもりを感じたかった。
「うん」
 けれども、短く返ってきた言葉にどうにか堪えた。
 きっとあの時、彼と同じ顔をしていただろう。鏡に映したように、同じ顔を。
 早くこの場を離れなければ、と焦燥感がわき上がった。
 このままでは、離れられなくなってしまう。そんな危機感を覚えたから。
 笑顔から、その見慣れた姿から目を逸らすように―――いや、確かに逸らしてしまったのだ。目を逸らして、背を向けてしまった。
 それきり。
 彼には会っていない。言葉も交わしていない。
 ざわめきが耳に戻る。
 閉じていた瞼を開いた。
 多くの人たちが行き交うロビー。人の声が織りなすざわめき、アナウンスの声が遠く、けれどもはっきりと響き渡る。
 あの時と同じ。けれども、同じ時ではない。
 ロビーにかつんとヒールの音を響かせた。


 久しぶりの実家での家族との食事。母親の手料理は単純に美味しかった。ずっと親しんできた味は、久しぶりに味わうともちろん懐かしく、こんなに美味しいものだったのだと実感できる。
 食事を終えたあとは家族との団欒。久しぶりに帰ってきた娘を交えてリビングのソファーで寛ぐ。ただ、それはいつもの日常と同じで、テレビも点いていたし、父親は新聞を広げている。片付けを終えた母親は、ケーキを用意して紅茶を注ぐ。
 紅茶のカップを両手に抱えて、少しずつこの半年の様子を話しながらも、視線はついテレビにほうへ向いてしまう。実家には顔見せのために戻っているだけで、向こうであったことなどはわりとマメにメールで連絡していたりするから、改めて言葉を重ねることもないのだ。
 テレビの画面が映し出しているのは音楽番組。アーティストが何組か歌ったりトークをする。長寿番組で、番組スタイルは昔から変わっていない。
 無論、今日本で何が流行っているのかということについて詳しくないので、どれもこれも初めて聴くものばかり。新鮮な気分で音に耳を傾ける。
 紹介されたアーティストが歌う準備をする間に、手の中のカップをテーブルに戻し、その代わりにショートケーキが載った皿をフォークと共に取り上げる。
 一口、クリームを掬って口に含んだところで、紹介されたアーティストが前奏もなしで歌い始めた。視線を画面に向ける。
 アカペラで強く一フレーズを歌い上げたところに、伴奏が混じる。
 フォークを銜えたまま、視線が画面に釘付けになる。
 間違いようがない。見間違いかと思ったのは一瞬だった。
 この音色。トランペットの音。
 少し、音が変わったように聞こえるけれど、根っこのところでは何も変わっていない。
 間違うはずがない。
 それを証明するように、カメラがトランペッターを一人映し出す。
 横顔。
 記憶にある横顔より、少し大人びている。
 荒い力で心臓を鷲づかみにされた。胸が痛い。
 予想もよらない痛みに視界が滲む。
 だが画面から視線は離さない。逸らせない。
 トランペッターは画面の端に時折映るだけ。その瞬間を逃さないように。
 曲はもう耳に入ってこなかった。曲だけではなく、何の音も―――。
 曲が終わっても、番組がコマーシャルに切り替わっても、しばらく動けずにいた。
 痛い。苦しい。呼吸が出来ない。
 滲んでいた視界ははっきりと何も映さなくなっていた。固く目を閉じると、目の縁が濡れる。
「どうした?」
 様子の変わった娘に父親は新聞を顔の前から下ろして声をかけた。だが、それに応える代わりに、ケーキの載った皿を置き立ち上がる。そのまま、リビングを飛び出した。
 何も考えていなかった。ただ、体が動き出していた。
 引っかけるように靴を履くと玄関からも飛び出す。
 何も考えられないままに走り出していたが、目的地ははっきりとしていた。
 すぐに息が上がってしまう。それでも、スピードが落ちても、走るのを止めなかった。駅に着いたときは、テレビを観たときの衝撃で胸が痛いのか、しなれない全力疾走をしたせいで肺が苦しくて胸が痛いのかわからなくなっていた。
 そして、それ以上動けなくなってしまった。
 行き先ははっきりしているのに、その為に駅に来たのに、財布一つ持たずに出てきてしまったのだ。携帯電話すら持っていない。
 走るうちに乱れた髪をかき上げ、大きく息を吐き出す。
 何も考えていなかったとはいえ、あまりにも考えなしだった。
 それに。
 行ってどうするというのだろう。
 先にさよならを告げたのは自分だというのに。
 どんな顔をして会うつもりだったのだろう。
 会って、それからどうするつもりだったというのだろう。
 だが。
 わかっていた。
 衝動的に走り出してしまうほどに、何も考えられなくなるほどに。
 好きだということを。
 その気持ちも忘れていなかったということを。
 またため息をついて、身を翻す。気怠い足を引っ張るようにして、歩き出す。
 このまま家に帰るつもりはなかった。
 そうだと気がついてしまえば、もう目を逸らすことは出来なかったし、気がつかない振りもできない。電車に乗らなくても、歩くという手段はある。
 会いに行こうと思った。
 会ってどうするつもりなのかは、やっぱりまだわからないけれど、会いたい気持ちはもう抑えられそうになかった。
 これまで何度か帰省したときにはもちろん会う約束もしなかったし、偶然に見かけることもなかったから、これほどまでに気持ちをかき乱されることもなかった。
 それが良かったのか悪かったのか、今は判断がつかない。
 ただ、こうして歩き出したことを悪いこととは思えなかった。
 そうやって、物思いに耽りながら歩いていたから、名前を呼ばれていることに気がつかなかった。
 きっと、何度も呼んだのだろう。
 大きな声が、耳の傍で聞こえた。
 振り返って、瞠目する。口を開いたが、そこからは何も出てこなかった。
 それは、名を呼んだ当人もそのようで、口を開いたまま固まっている。その瞳には信じられないという思いが浮かんでいる。
 しばらく、往来で二人向かい合ったまま無言で立ち尽くしていた。
 長いような短いような時間。二人の間に流れる空気だけが濃い。
「おかえり」
 はにかんだ笑顔と、言葉。
 胸を突かれる。
 言葉を返す余裕はなかった。
 手を伸ばして、体を前に押し出して。
 しがみつくように、暖かい胸に飛び込んでいた。
 あの時、別れの時、空港のロビーでしたかったことを、今ようやく出来た。
「ただいま」
 胸に顔を押しつけたまま、くぐもった声で返す。直接その胸の奥に届くように。


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