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香穂子は弓を下ろすと、肩から力を抜いた。同時にため息がこぼれる。
その頭上には雲ひとつ無い青い空が広がっている。
屋上には香穂子ただ一人。
コンクールに参加することが決まって五日。第一セレクションは目前だというのに、なんとか楽譜の音を拾うことが出来るくらいだ。曲にはなっているけれども、到底、舞台に立って誰かに聴かせられる音ではない。
ぎこちなく、ただ音が出ているだけの状態。
果たして、曲は仕上がるのだろうか。コンクールに間に合うだろうか。
のんびりしていては、間に合わないことが容易に想像できた。だから、こうして昼休みも練習しているのだが───。
「もう一回、最初から」
姿勢を正し、ヴァイオリンを構える。弓を弦に当て、引く。
何をどう弾いたらいいのかもよくわかっていない。ただ、譜面にある音を鳴らすだけ。それだけではダメだとわかっていても、音を出すこと以外にどうしたらいいのかもわからないのだ。譜面に書かれている文字の意味もわからない。
一通り弾き終わったところで、背後から拍手の音が聞こえてきた。それはあまりに唐突で、ヴァイオリンを落としてしまいそうになるくらい驚いた。
「ごめんごめん。脅かしちゃった?」
振り返ると、笑顔の火原が立っていた。
「火原先輩………びっくりした………」
ほっと胸をなでおろす。
「昼休みも練習なんて、熱心だね」
香穂子は曖昧に笑った。
練習しないと、とてもじゃないが同じ舞台に立てないのだとは言えなかった。
音楽科からの参加者たちと香穂子では、比較しようがないことはわかっている。魔法のヴァイオリンがあるからとはいえ、香穂子はまだヴァイオリンを弾き始めて五日。一方、音楽科の人たちは毎日、何年も練習をしてきているのだ。そこに開きがあることは当たり前である。
しかし、それは香穂子の事情でしかない。そんなことは、他の参加者にも、聴衆にも、審査員にも、関係が無い。それどころか、普通科から参加するのならば、相当の腕前を隠し持っているのであろうとさえ思われているのだ。
見栄を張ろうというのではない。全くの素人である事実は動かしようがないのだから。
だけど、こんな情けない事は、言えない。
火原は笑っただけの香穂子の前に立つ。少し首を傾げると、おもむろに人差し指を伸ばしてくる。
何かの反応をする暇もなかった。
「痣になってる」
火原がそう言ったときには、彼の指先は香穂子の鎖骨に触れていた。
心臓が大きく波打つ。それは全身に響いて、香穂子の身体を熱くする。
しかし、それ以上に鎖骨に触れる火原の指先が持つ熱を強く感じた。
触れている範囲はとても小さいのに、そこだけが凄く熱い。
いや、狭い範囲だからこそ熱く感じられるのか。熱が一点に集中しているからか。
その狭い範囲なのに、火原の指をしっかりと感じている。強く押しつけられているわけではないのに、確かな重みがある。自分で触るとなんてことのないところなのに、触れられると香穂子の中にあるもの全てを触れられているような気がする。
何故か、とてつもなく恥ずかしい―――。
その思いは香穂子の表情に顕れる。
「ご、ごめん!」
香穂子の顔の色を見た火原は、慌てて指を離した。すぐに指を離したのに、香穂子の顔の赤味が移ったかのように火原も顔を真っ赤にする。
「えっと、その、ごめん!!」
他に言葉が出てこないようで、火原は謝ってばかりだ。
「い、いえ………大したこと、ないですから」
おかしな返答である。しかも、香穂子にとって大したことではないと、身体が言っている。
「えっと、それじゃ、邪魔してごめんね。がんばってね」
火原は慌ててそれだけ言い残して、足早に屋上のドアから去っていった。
香穂子は一人取り残されて、呆然とそれを見送っていた。
しばらくそのままで閉まった屋上のドアを見つめる。そこに火原の姿を見るかのように。そして弓を握った右手の甲を、頬に当てる。
熱い。
それから、その手を鎖骨へと動かした。
そこには確かに、じんとする熱が残っていた。
火原が触れていった場所。
(って、それどころじゃないんだってば!)
香穂子は首を振って熱を払おうとする。だが、そんなことで熱が払えるはずもない。
ヴァイオリンを構えて、練習に没頭することにした。
だが、ヴァイオリンを構えると、自然とそこは火原の指が触れた場所と重なる。
「~~~~~~ッ」
香穂子は、結局ヴァイオリンを降ろした。
今日はもう練習できそうになかった。
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