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「かーずきー」
兄の陽樹が弟の部屋をのぞき込んだとき、部屋の主は机の前に座って、椅子の背に思い切り上半身を預けて仰け反っていた。あと少しでも仰け反ると椅子ごとひっくり返りそうである。
「なにー?」
頭を逆さにしたままで、火原は兄に答えた。
「ちょっと気晴らしにいかねーか?」
「行く!!」
勢いをつけて、火原は体を起こした。
机の上にはノートとテキストが広がっている。大学の合格発表も済んで、火原は春から大学生となることが決まっているのだが、その実、かなりギリギリのところでの合格だったことが、火原をしばらく落ち込ませていた。
火原当人としては、これまでの火原からは想像も出来ないくらいのかなりの勉強をしたので、自信満々での受験だったのだが、それが甘いものだったのだと知ったときの火原の落ち込みようも、これまでにないほどだった。
しばらくすると、火原は立ち直っていてほっとしたものだが、それ以降、火原は暇を見つけては今のように机に向かってなにやら勉強するようになっている。入学までにいくらか身につけておきたいと考えているからだ。
それでも、今のように、集中力が途切れてしまうこともしばしばで、そういうときには陽樹から声をかけて気晴らしにつきあうようにしている。
「今日は体育館だからな。バッシュ忘れんなよ」
「オッケー!」
言いながら出かける支度を始めた火原に笑いをこぼして、陽樹は弟を玄関で待つことにした。
ややもすると、火原が二段飛ばしで階段を下りてくる。そのままの勢いで玄関までやってきた。
「お待たせ!」
靴を履きながら、玄関から出て行く。
「おい、傘」
まだ春は遠いのだと思わせる冷たい雨が細々と降っている中に、火原は三歩ほど飛び出してから、慌てて戻ってきた。
傘を差して、並んで歩く火原の手に見慣れないシューズバッグを見つける。
「それ、どうしたんだ?」
「これ?」
目の前まで持ち上げて、火原はにーっと笑った。
「こないだ貰ったんだ、日野ちゃんから」
「日野ちゃん………」
「えーっ! まだ覚えてないの!? ほら」
「和樹の後輩で、春のコンクールに参加した子だろ。秋にはアンサンブルで今はオーケストラに挑戦してるっていう」
火原の言葉を遮って、耳にたこができるくらいに火原から聞かされた彼女のことを端的に表現する。
「そうだよ! 日野ちゃんがね、チョコと一緒にくれたんだ」
「チョコ………」
少し間を置いて、陽樹は言葉を続ける。
「じゃあ、日野ちゃんと付き合うことになったのか」
「ええ!?」
火原の大声は心底驚いていることを表していた。そこに照れがない。
陽樹は心中で首を傾げる。
火原と彼女が付き合っているというのは違っていたようだ。
それはすぐに火原によって肯定される。
「何言ってるの! そんなわけないよー」
一点の曇りもない火原の笑顔は、陽樹を黙らせる。
あんなに火原は日野香穂子という女の子のことを話して聞かせてくれた。それに、落ち込んでいた火原を立ち直らせたのも香穂子ではないかと、密かににらんでいるくらいだ。
何はともかく、香穂子のことを火原が気に入っているのは間違いがない。
だが、恋愛感情がなかったとは。
火原は恋愛方面に疎いほうだと思う。思うが、しかし………。
(それに………)
火原のシューズバッグを再び見る。
バレンタインディにチョコレートだけではなく、それより高かったであろうシューズバッグまでプレゼントしてくれる女の子。
(意識されてるんじゃないかなぁ)
それなのに、火原はきっと天真爛漫に「ありがとう!」と受け取っただけでバレンタインディを終わらせたに違いない。
何度か見かけたことのある香穂子の顔を思い浮かべて、申し訳なく思う。不甲斐ない弟で申し訳ない、と。
あまりに申し訳なくて、つい口を滑らせた。
ただの憶測である。でも、間違っていないと思う。
「普通、なんもなくてシューズバッグはくれないだろ」
「なんで?」
この無邪気さは時々憎い。
「普通なら、チョコだけとかさ。チョコに添えて他のプレゼントもくれるなんて、特別な感じだろ」
「特別? そうかなぁ」
この期に及んで、まだ言うらしい。
「あいてっ」
我慢ならなくて、火原の頭を小突いた。
「ちったぁ、頭を使って考えろ」
受験も終わってあとは卒業式を待つだけの身であるが、火原は基本的に平日は学校へ行っている。多分に漏れず、今日も朝から意気揚々と学校へと向かっていた。
昨日の雨はすっかりあがっていた。今朝は気温は低いものの、午後から春の気配を感じられるような好天である。
(兄貴は何であんなこと言ったんだろう)
昨日の兄とのやりとりを思い返していた。
普通なら、チョコレートだけくれるはず?
シューズバッグまでくれるなんて、それは特別なこと?
特別って何?
普通とは違うこと。
他とは違うこと。
(それって日野ちゃんがおれのこと特別に思ってるみたいじゃないか―――)
そう思ったのと同時だった。
「火原先輩!」
背後から声をかけられて、びくっと肩をふるわせる。
心臓が急に大きな動きをし始める。ドキドキと繰り返すその音は火原の中に響きわたっている。
そのせいか、顔がなんだか熱くなってきた。
振り返る前に、声をかけた本人が火原の横に並ぶ。
「おはようございます」
笑顔が火原を見上げていた。
今まさに、火原が思いを馳せていた当人、香穂子だった。
「お、おはよう! 日野ちゃん!」
声がうわずった上に、大きくなる。
何故なら、心臓がドキドキからバクバクへと更に大きな音を立て始めたからだ。その音が、外にも響いて香穂子にまで届いてしまいそうで、それをごまかそうとした結果だ。
(お、おれ、どうしちゃったんだよー!)
内心で慌てつつも、それを香穂子に気取られてはいけないと平静を装う。
だが、火原のことなので、うまくはいっていない。すぐに香穂子は火原の様子がいつもと違うことに気がついてしまった。
「具合でも悪いんですか? ちょっと顔が赤いみたい………熱でもあるんじゃ………」
「いやっ! そんなことないよ!! 元気いっぱいだよ!!」
あっさり見抜かれてしまって、より慌てる。
(なんとかしなくちゃ………!)
そう思ってみても妙案はないに等しい。
(し、深呼吸はどうだろう!?)
大きく息を吸って、吐く。
(落ち着いたかな………)
「先輩、大丈夫ですか?」
「うわあっ」
心音が落ち着いたのかどうかもわからないままに、さっきよりも大きな音が自分の中心から響き出す。
どんどん熱くなってきて、冬の朝にも関わらず汗が噴き出してくる。
火原の頭の中は軽くパニックに陥っていた。
「あああのさっ。あの、日野ちゃんはさっ」
もう香穂子を直視することも出来ない。顔は香穂子のほうへ向けているが、視線は僅かに反らしている。
口は勝手に動いている。
「日野ちゃん、おれの」
言いかけた状態で、火原の本能が制止をかけた。
おれのこと、特別に想ってるの?
これは、本人に訊いてはいけないことだと、直感が火原を止めた。
「先輩?」
「なっ、なんでもない!!!」
そんなわけがない。おおありだ。
これ以上、どうしていいかもわからない。
結果、火原が選んだ行動は―――。
「お、おれ、先に行くね!!」
星奏学院の正門を抜けたところで、おもむろにダッシュしたのだった。
ドクドクと激しく鳴る心を抱えて。
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