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「ええっ!? カツサンドもうないの!?」
「ごめんねぇ」
購買部のおばちゃんのすまなさそうな顔を見て、火原は更に肩を落とした。今朝から下がりっぱなしの肩は、もうこれ以上下がることは無理だと思われた。
混み合う購買部を離れて、カツサンド以外に得たパンの数々を両腕いっぱいに抱えて、とぼとぼふらふらと歩き出した。
今日は本当にツイてない。
(占い、当たってたんだなぁ)
それは朝いつも見る星占い。ランキング形式でその日一日の運勢が解るようになっている。
『今日の最下位は射手座。思い通りにことが進まない日。アクシデントの連続です。怪我にも注意。ラッキーカラーはシルバー。ラッキーアイテムは傘』
そう言っていたことを今になって思い出した。それに気付くとやっぱりそうだったのかと思わざるを得なかった。
まず、家を出る前にお気に入りのスニーカーの靴ひもが切れた。靴ひもは買い換えればいいので問題がないにしても、今日履いていくスニーカーがなく、代わりに一年生の頃、一学期の間だけしか履いていなかった革靴を引っ張り出すことになった。動きにくくて火原は革靴が好きではない。だが、今日はしょうがない。慣れない革靴で家を出た。
何だか落ち着かない気分で、駅までの道のりを走ろうと思ったが、思うように走れなかった。靴に気を遣ってしまうのだ。結果、いつもの電車に乗り遅れた。そもそも、靴ひもが切れた騒ぎで家を出る時間も遅れてしまっていたのだ。無理もない。
それに、駅に入って定期がないことに気付いた。いつも上着のポケットに入れているのだが、今朝はその上着を替えてきたのだ。昨日、汚してしまったから。朝からバタバタと替えてきたから、ポケットの中のものを移し替えるのを忘れていた。財布を忘れていなかったことだけは幸いだった。
電車を降りて、学院までの道のりでは特に何もなかった。そう、何もなかった。最近はばったり香穂子と出会うことが多かったのだが、今日は会えなかった。電車一本分乗り遅れているのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが。
教室に入る頃になって、なんだか右足の踵が痛いことに気がついた。席について革靴とその下の靴下を脱いで見てみると、真っ赤になってマメが出来ていた。慣れない靴を履いた結果だ。
「痛そうだね、火原」
椅子の上で右足だけあぐらを掻いている状態になっている火原に、前の席から柚木が声を掛けた。
「絆創膏を貼っておくといいよ」
「サンキュー」
そう言って柚木がくれた絆創膏を貼って、その場を凌ぐ。
授業も散々だった。各時間ごとに火原が指名され、答えなければならないことに。毎時間のことだから、さすがの火原も教師達が「今日は火原を徹底攻撃だ」なんてことで結託しているんじゃないかというあらぬ疑いを掛けたくなったくらいだ。
そんなわけでくたくたになった午前中を終えて午後から元気を出すためにカツサンドを食べようと意気込んだのは良かったのだが………。
どっと疲れた気分だ。
「あ、あの、火原先輩………」
背後から呼ばれたことにも気付かない。
「ひ、火原先輩っ」
背後の声は確かに大きなものではなかったが、一生懸命叫んでいた。だが、呼ぶだけでは駄目だと気付いたようで、小走りに駆け寄ってきてその背中に軽く触れられることでようやく自分が呼ばれていたことを知った。
「火原先輩」
「あ………冬海ちゃん。どうかした?」
細い声は冬海だった。同じコンクール参加者であるが、冬海のほうから話しかけてくることは珍しい。そのことに気付く余裕も火原にはなかったが。
「あの、これ、落としましたよ………」
冬海が差し出したのはクリームパン。火原が買っていたものの中に含まれていたようだ。記憶にないが、「ありがとう」と腕の中に戻して貰った。
「お元気、なさそうですけど………何か、あったんですか………?」
「あ、ううん。へいき。大したことないよ」
笑ってみたが、力のないものになった。
「じゃあ、ありがとね」
「あ………」
冬海はそれ以上何も言えないまま、火原を見送るしかなかった。
冬海と別れてよろよろと森の広場までやってくると、一番近いベンチに腰掛ける。ぼろぼろと手の中からパンをこぼす。
「はぁ………」
ため息をこぼしながら、一つ手の内に残ったコロッケパンをのろのろと開封する。ぱくぱくぱくと三口で平らげると、牛乳でごくごくと喉の奥へと流し込む。
少しだけ復活した。空腹を満たすのは、元気を取り戻すのに有効だ。
続けざまに、買っていたパンで空腹を満たしていく。
買ったものを全て食べてしまう頃には、火原は完全とは言わなくてもかなり元気になっていた。丸まっていた背中をぴんと伸ばして、すっくと立ち上がる。腰に手を当てて「よし!」と声を出してみた。それだけでしゃきっとした気分になる。
仰いだ空はどこまでも青く、雲一つない。こんなにいい天気にいつまでもへこんでいるのはもったいない。
「ひーはーらー!」
大きな声に振り向いたら、サッカーボールを片手に長柄が呼んでいた。
「あっ、サッカーするの!? おれもやる!」
「そうだと思って探しに来たんだよ」
「サンキュー! じゃあ先に行っててよ。すぐ行くからさ」
「りょーかい」
軽くサッカーボールを上げて、長柄は応えると火原に背を向けて森の広場を去っていった。火原もその後を急いで追うべく、食べ散らかしていたパンの包みをいっぺんにぐしゃぐしゃと丸めると、上着の右ポケットに突っ込んだ。飲みかけの牛乳を一気にストローで吸い上げながら森の広場を走り出て、火原は誰かに衝突した。誰なのかはわからなかった。
ごちん、と頭の中にまで響く音をたてて、その誰かと頭突きあった。かなりの勢いだった。目の前にはチラチラとしたものが飛ぶくらいの勢い。
「ってぇっ」
相手の声は聞こえたが、火原は一言も発することができなかった。
そのまま意識が遠くなるのを感じていた。仰向けに倒れていく火原の視界に入るのは、変わらず雲ひとつない青い空だった。
(あー、やっぱりツイてない………)
今度は後頭部に衝撃を受けて、火原の意識は暗転した。
「あぁ………こぶになってますね」
人の邪魔にならないように木陰に移動していた。
「やっぱり?」
恐る恐る後頭部を手で触ってみると、言われたとおりにそこにはぷっくり膨らんだたんこぶがあった。
「悪い。土浦は大丈夫だった?」
火原がぶつかった相手は土浦だった。気を失っていたのはさほどの時間ではなかったようで、目を開けたときには火原の回りに人垣ができていた。火原が目を覚まして落ち着いたのを見て、その人垣はあっさりと解けた。残っているのは当事者の二人だけだ。
「俺は大丈夫ですよ。鍛えてますから」
相当の勢いだったと思うのだが、土浦の額はうっすらと赤くなっている程度だったし、火原のようにひっくり返ることもなかった。
「俺も前方不注意だったし。ちょっと人を探していたんで」
「日野ちゃん?」
「何で知ってるんです?」
土浦がぎょっとしている。何故驚いているのか火原にはわからない。
「今、日野って言わなかった?」
「いいえ。人、とは言いましたけど」
「あ、そうなの?」
どうやら単純に火原の聞き間違いだったようだ。
そういえば、今日は一度も香穂子に遭遇していない。もともと音楽科と普通科ということもあって校舎も別だから、休み時間にばったりということも少ない。それでも普通科のエントランスにある購買部へ行ったときには高確率で香穂子と遭遇するのだ。あと、最近では朝の通学時間。
会えないことは珍しいことではない。だが、一度気付いてしまうと、会えないことが気になってしょうがない。今日のような日は特に。
「土浦、日野ちゃん探してるんだ」
「ええ、まぁ………」
幾分気まずそうな返事の仕方だが、火原はそれに気付かない。
「じゃあ、おれも一緒に探すよ」
「いや、別にそこまでしてもらわなくても………」
「気にしないでよ。おれが日野ちゃんに会いたいだけなんだから」
そうすれば、このツイていないのもどうにかなりそうな気がした。
「じゃあ、まずはこの森の広場から! 二手に分かれよう」
そう勝手に言い放って、火原は意気揚々と歩き始めた。歩くたびにずきずき痛む、頭のこぶのことは考えないことにして。
結論から言えば、昼休みのうちに香穂子と遭遇することはなかった。短い時間内で探すことができる範囲も限られていたし。
それどころか、今日は一度も会えないままに一日を終えてしまうことになりそうだった。
いつもなら、コンクールのために一生懸命練習している香穂子の音を耳にすることがあるというのに、今日に限って聞こえてこなかったのだ。
火原はトランペットの入ったケースをブラブラさせながら、香穂子がいそうな場所を転々として回ったが、そのどこにも香穂子は居なかった。途中で天羽に遭遇したから、香穂子を見かけなかったかと訊いてみた。
「さっき音楽室の近くで見ましたけど、急いでどこかに移動中でした」
既に音楽室には一度足を運んでいたが、天羽の目撃情報を元にもう一度行ってみることにした。急いで移動中だったというから、もうそこに居ない可能性はとても高かったけれど。
案の定、香穂子はそこにいなかった。
「あ、火原先輩!」
音楽室に数人集まっていたオーケストラ部の後輩が、音楽室に首だけ覗かせた火原を目敏く見つけた。
「何?」
「少しお手本を見せて欲しいんですけど………」
頼まれたら嫌とは言えない。むしろ嬉しい。それに誰かと練習をすること、音を合わせることは楽しい。
後輩達と過ごしていると、下校時刻はすぐに訪れた。香穂子を探す時間ももうない。今日はこのまま帰るしかないようだ。
エントランスから外に出ようとして、立ち竦んだ。
「あーあ………」
首だけ伸ばして空を見上げる。まだ暗くなるには早い時間だが、厚い雲が空を覆って日が落ちたのと同じくらいに暗い。そして、地面に激しい音を立てながら叩き付けるように降る雨。
「どしゃぶりだ………」
これは止みそうにない。いつから降っていたのだろう。全く気付いていなかった。そして当然のごとく、傘は持ってきていない。
(傘を持ってきてたら、ラッキーアイテムだったんだ)
今考えても埒のあかないことを考える。
雨脚はどんどん強くなっており、今では真正面にある普通科のエントランスも白い雨にぼやけてしまってよく見えない。
天気予報では夕方から雨になるということを言っていたのだろうか。傘を差して出ていく生徒がいる。用意がいい。羨望の目でそれを追いながら、火原は大きくため息をついた。
とにかく傘がないのは事実だ。そしてこの土砂降りの中出ていくことは得策ではないということくらいの判断も火原には付く。少し時間を潰して雨が落ち着くのを待つしかない。エントランスの中に戻ろうと火原は踵を返す。
「火原先輩!」
その背中に呼びかける声があった。
火原は、声にすぐさま反応した。
今日、聴きたくてしょうがない声だった。
体ごとそちらを振り返る。
「香穂子ちゃん!」
顔中が笑みでいっぱいになる。
会いたくて、会いたくて、だけど会えなかった香穂子が今、エントランスの入り口に立っていた。赤い傘を差して、火原の顔を見て微笑んでいる。
火原は勢いよく香穂子に駆け寄った。
「先輩、一緒に帰りましょう? 傘ないんでしょう?」
「あーうん。そう。そうなんだ」
笑みを照れたものに変えながら、香穂子の言葉を肯定する。
「良かった、見逃さなくて。雨の中からだったからよく見えなかったけど、あそこにいるのは火原先輩だなって思ったから」
「そっ、そっか! ありがと!!」
すごく嬉しいかった。香穂子と会えたこと。それが、香穂子があの視界の悪い雨の中で火原を見つけてくれたからだということ。そしてここまで火原を誘いに来てくれたということ。それが全て嬉しかった。今日一日ツイてなかったのがこれで全部帳消しになった気分だ。帳消しどころじゃない。それ以上に幸せだ。
「傘が一つしかないから、少し濡れちゃうかもしれませんけど、駅までで良かったら」
「うん!! 充分だよ! ありがとう!!」
少し雨脚が弱くなってきたところで、火原は香穂子と肩を並べて歩き出した。傘は火原の手にあり、二人の上を覆っている。それほど広い傘ではないから、火原の肩は傘の外にはみ出していて濡れるがままになっているが、そんなことは全然気にならなかった。さっきの幸せにもう一つ。香穂子と相合傘をしていることがまた嬉しかった。
(うん! やっぱりあの占いは当たってたんだ! ラッキーアイテムが傘って本当だったからね!)
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