忍者ブログ
  ▼HOMEへ

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

名前で呼んで

 最近、不満に思っていることがある。
 時々ある試験や進学を控えた三年生としての自覚がどうのこうのと先生達から説教をされたりするけど、友達がたくさんいる学校生活は毎日楽しいし、カツサンドは相変わらずの美味しさだし、青空の下で響かせるトランペットの音はすこぶる絶好調だし、何より可愛い彼女とは上手くいっていて幸せ。こんなに幸せでいいのかなって思ってしまうくらい。
 だから、本当なら不満なんてないはずだし、不満に思うことがあるなんて贅沢すぎるんじゃないかって思わないこともない。
 だけど、一つだけ。
 些細なことだけど、重要なこと。
「香穂ちゃん!」
 名前を呼びながら、正門前で火原のことを待っている香穂子へと駆け寄っていく。
 香穂子は火原に気がつくと笑顔を見せた。この笑顔が火原は特別に好きだ。自分の声だけに反応する笑顔。
「ごめんね。少し遅くなっちゃった」
「ううん。大丈夫です」
「じゃ、帰ろうか」
「はい」
 肩を並べて正門から外へ。
 こうして一緒に帰るようになってもう七ヶ月。二度目の衣替えも済んで、日が落ちると肌寒く感じられるようになってきた。来月になったらそろそろコートが必要になってくるだろう。
 寒いからという理由からではなく寄り添って、当たり前に手を繋いで。
 新しい季節はいつも新鮮で、香穂子と二人で過ごす毎日はいつもドキドキしてばかりで。
 もっと香穂子と一緒に過ごしたいのに、一日は短い。
 だけど、不満なのはそんなことじゃない。
「ねぇ。寄り道して帰ろっか。ケーキ、食べていかない?」
「いいですね!」
「決まりだね」
 駅前のカフェは二人のお気に入り。
「今日は何を食べようかなぁ………」
 カフェに着く前からメニューを思い浮かべることが出来るほど、お気に入り。
 本当に幸せそうな顔をしてケーキを頬張る香穂子を見ていると、火原も幸せな気分になる。
「火原先輩は何にします?」
「あ、うん」
 少しだけ、火原の幸せな気分が薄れる。香穂子が気づかないほどに、ほんの僅かだけれど。
 火原先輩。
 香穂子は火原のことを呼ぶときに、そう呼ぶ。
 出会ったときからずっと、変わらずに。
 香穂ちゃん。
 火原は香穂子のことをそう呼ぶ。これは、仲良くなってからだけれど、もうずいぶんと長い。
 それが、不満。
 火原先輩。
 何故だか、親密に思えない。
 香穂子の呼ぶ、「火原先輩」はそれだけで他の人と違って特別に聞こえるけれど。
 もっと親密さを感じたい。特別だと思いたい。
 ずっと気にしていなかったのに、一度そのことを思ってしまうと、今度はそれが頭から離れなくなってしまった。
「香穂ちゃん」
 強張った呼び方になってしまう。いつもと違うことに気がついたのだろう。香穂子が浮かべていた笑顔を消して、火原の顔を見る。
「あの、さ」
「はい」
「おれのこと………おれの」
 どちらからともなく足を止めて、道端で向かい合っていた。
 正面に香穂子を見つめていた火原だったが、続きの言葉を口にするのに横へと視線を逸らしてしまったのは、恥ずかしかったからだ。
 こんなこと、お願いすることじゃないとわかっている。
 だけど。
 繋いだままの手に自然に力が籠もる。
「おれの名前で呼んでくれないかな」
 二人の周りでだけ、静寂が訪れる。
 あまりに長いこと香穂子が黙っているので、不安になった火原は視線を香穂子に戻した。
 香穂子の顔は真っ赤だった。火原の視線が香穂子を捉えたことに気がつくと、殊更狼狽える。
「ええっと………あの、名前、ですか?」
 相手が狼狽えていると反対に落ち着くものなんだと、場違いなことを思う。
「うん。名前。おれが香穂ちゃんって呼ぶみたいに、和樹って」
 火原に繋がる香穂子の手が熱を帯びた。今の香穂子は顔だけではなく、全身が真っ赤になって熱を持っているに違いない。
「そそそそんな、呼べません………!」
 香穂子は大きく首を横に振った。伸ばしている髪の毛が広がる。
 そんなに激しく否定されると、気落ちするのは否めない。だが、これくらいで諦めたりしない。
「じゃあさ、和樹先輩から始めよう」
 以前も、火原が香穂子のことを「香穂ちゃん」と呼ぶことを香穂子に承諾して貰うときにこの呼び方を提案したことがある。もちろん、香穂子はそう呼んではくれなかったが。
 香穂子も観念したのだろう。
 顔を真っ赤にしたままで口を開く。
「か、和樹先輩」
 目の前がくらりとした。
 照れの混じる香穂子の声で、自分の名前を呼ばれることがこれほどまでにドキドキしてぼうっとなるものなんて。自分の名前なのに、自分の名前じゃないみたいだ。でも、それは紛れもなく自分の名前。自分だけのために呼ばれるもの。
 そして―――病みつきになりそうだ。
「あの、火原先輩………」
 気遣わしげな香穂子の声。
「和樹先輩」
 すかさず訂正した。
「あ………和樹先輩」
 勝手に頬が緩む。
 嬉しすぎて、おかしくなりそうだ。
 これだけで今はもう十分だ。もし「和樹君」とかもしくは「和君」とか「和樹」とか呼ばれたりしたら、どうなるかわからない。
 それに、香穂子と過ごす時間はこれからまだまだある。冬を越して、香穂子と出会った春になってようやく一年。だけど、先は長いのだ。
 焦らなくていい。
 きっとそれじゃまた物足りなくなって不満に思うようになるはず。その時にまた違う呼び方をして貰えばいい。
「香穂ちゃん!」
 嬉しさをそのまま声に含ませて、香穂子の手を引いた。
「行こうか」
「はい」
 香穂子は赤みの残る顔で笑った。
「和樹先輩」

拍手[1回]

PR

Copyright © very berry jam : All rights reserved

「very berry jam」に掲載されている文章・画像・その他すべての無断転載・無断掲載を禁止します。

TemplateDesign by KARMA7
忍者ブログ [PR]