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愛しいきみに

「じゃ、お先に失礼します!」
 鞄を引っつかんで、火原は職員室を飛び出した。廊下を走るなと、いつも注意している側である事を思い出して、努めて意識しながら職員用の玄関へ向かう。
「おっ。火原。今帰りか」
 ペタンペタンとサンダルの音を鳴らして、廊下の反対側からやってくるのは金澤である。トレードマークの白衣のポケットに両手を突っ込んでいる。そのどちらかの手ではタバコの箱を弄んでいることだろう。
「珍しく遅いじゃないか」
「うん。一つどうしても片付けておかなきゃならないことがあって」
 互いに足を止めないままだったので、二人の距離はすぐに接近する。そこまできて、ようやく足を止めたが、内心ではその場で足踏みをしている。
「そりゃ熱心だな。最近は早々に帰ってばっかりだったからなぁ。ツケが回ってきたか。なんだって毎日毎日そんなに急いで帰ってるんだ?」
「だから、それは」
 以前、その理由については話していたことがあるというのに。そのことについて話すこと自体は火原にとってとても嬉しいことで、何度であっても構わない。だが、その一方で、他の人にとっては結局他人事だから、あまり覚えていて貰えないのかと思うと、気落ちする。
「赤ん坊が出来たんだったっけな」
 火原の気持ちを余所に、金澤はあっさりと正解を口にした。
「もうそろそろ六ヶ月目くらいか。あと四ヵ月もすりゃ立派なパパになるわけだ」
 そういう金澤の口元はにやけていて、火原は金澤にからかわれていたのだと悟った。
「火原が父親なぁ………。なんというか、時の流れを感じるよ。で、お前さんは大喜びで勇んで帰ってるってわけだ。毎日毎日よく続くもんだな。感心するよ」
「これくらい普通でしょ。本当なら学校にも来ないで一日中奥さんと赤ちゃんと一緒にいたいくらいだよ。もう楽しみで楽しみでしょうがないから、早く生まれてきてくれればいいのに。あっ、でも生まれてきたらそれはそれで学校へ行きたくなくなっちゃうだろうな。うん」
「………火原。それはあんまり普通だとは思わない。頼むから、仕事はしてくれよ」
 腕を組んで深く頷いている火原に、金澤は呆れ顔である。
「わかってるよ! 可愛い奥さんと赤ちゃんがいるなら百人力だよ。二人の為に頑張るんだって思うと、なんだって出来るね!」
 金澤は相好を崩した。
「そういうとこ、ほんと、お前さん変わってないよな」
「そうかな」
「そうそう。………引き止めて悪かったな。早いとこ帰ってやれや。日野も待ってるだろ」
「うん。それじゃあね、金やん!」
 何故か疲れた顔をした金澤に見送られて、火原は学校を後にした。既に日は落ち、道を照らすのは街灯だけとなっていた。月と星の明かりは火原のところまで届かない。でも、今の火原にはそれを見上げる時間も惜しい。ただただ、家路を急ぐのみだ。
 学校までは徒歩通勤をしている。母校に勤務して二年後、香穂子と所帯を持つにあたって、星奏学院に近いアパートを借りた。学校までの往復はジョギングも兼ねているから、正確には徒歩ではないのだが。
 走った、という達成感を感じられない距離を走って、アパートの階段を駆け上がる。階段を上ってすぐのドアが二人の───いや、三人の部屋だ。
「ただいま!」
 ドアを開けると同時に中へと大きな声をかける。
「おかえりなさい」
 きっとキッチンにいるであろう香穂子の柔らかな声と、暖かな灯りと、美味しそうな匂いが火原を迎えた。
 靴を脱ぎ散らかして、一直線にキッチンへ向かう。
 果たして、香穂子はキッチンに立っていた。笑みを浮かべた顔を火原に向ける。その笑顔に向けて、もう一度「ただいま」と言った。
 そしてを屈めると、視線を香穂子の腹部へ向けて、更にもう一度。
「ただいま」
 香穂子のお腹の中にいる、愛しい存在へと心を込めて。
 だけど何故か物足りない。何かが足りない。だがそれが何なのかはっきりしない。わからないままでいるうちに香穂子が話しかけてきたから、その僅かな感覚はあっという間に消え去ってしまう。
「もう少し待ってて。あとちょっとでご飯の準備が出来るから」
「うん。先に着替えてくる」
 姿勢を元に戻し、香穂子に笑顔で答えた。それから、頬に軽くキスをする。いつものことなので、香穂子も驚かない。ただ、くすぐったそうに笑うだけだ。
 ネクタイを緩めるだけで、ほっとする。なかなか慣れないものだ。
(もしかして、金やんが白衣を着てるのって、それだけでなんとなくフォーマルな格好に見せるためだったりするのかな)
 金澤はネクタイもしていないし、その下に着ているのはいたってラフな服装だ。
(だったら、いい手だなぁ………)
 他愛もないことを思いながら着替えを済ませ、キッチンへ戻ると、ダイニングを兼ねたリビングに香穂子が作ったばかりの料理を並べているところだった。
「あっ、香穂ちゃんはもう座ってて! あとはおれが運ぶから」
 自分のうっかりさ加減に情けなさを覚えながら、カウンターに用意されていた皿を手に取り、テーブルの上に並べた。既に料理は全てテーブルの上に並んでいたから、それくらいしかもう運ぶものがなかったのだ。
「ありがとう」
「ごめんね。もっと早くに帰ってくればいっぱい手伝えるのに。大事な体なんだから、無理させちゃいけないし」
「大丈夫。無理はしてないし、少しは体動かさないとダメだし」
「そうだけど! 帰ってきてからくらいはおれにさせてよ。昼間は何も出来ないからさ」
「お仕事して帰ってきてるんだから、帰ってきてからくらいはゆっくりしててください! これは私の仕事なんだもの。素敵な奥さんになるって、結婚するときに決めたんだから。これくらい出来なくちゃね。それに、素敵な奥さんだけじゃなくて、これからは素敵なお母さんにも………って!」
 香穂子の言葉は途中で途切れる。
 背後に回った火原が、その身体をすっぽりと腕の中に抱き込んだからだ。
「どうしたの?」
「どうもしないけど………すごく、抱き締めたい気分になっただけ」
 香穂子の腹部に腕を回すと、そこにはしっかりとした膨らみを感じる。この中には、火原と香穂子の子供がいる。
(あ………)
 さっきも感じた物足りないという気持ちが蘇ってきた。
 そして、何を物足りないと感じているのかも。
「ねぇ」
 香穂子の肩に顎を載せるようにして、囁く。
「うん?」
「名前」
「名前?」
「赤ちゃんの名前、決めよう」
「ええ!?」
 香穂子が顔を上げて火原を振り返ろうとしたので、火原は顎を引きそれに備えた。
 上目遣いの香穂子の瞳には驚きが顕れている。
「だって、まだ男の子か女の子もわかってないのに」
「おれは絶対女の子だと思う。香穂ちゃんにそっくりの可愛い女の子! だから女の子の名前!」
 香穂子が火原から視線を逸らす代わりに、腕の上から自分のお腹に触れる。柔らかな香穂子の掌に、少し興奮した火原の気持ちがすうっと落ち着く。
「赤ちゃんっていうんじゃなくて、ちゃんと名前で呼びたいんだ」
 ただいまもおはようも。話しかけるときにはいつもその名前で呼びたい。
 さっき感じていた物足りなさはそこにあったのだ。たった一人の大切な子。赤ちゃんじゃない。火原と香穂子の二人の子供。
「うん………」
 香穂子の手が火原の腕を撫でる。
「うん」
 もう一度頷くと、香穂子はまた火原を振り仰ぎ、その火原の目をまっすぐに見つめた。それから笑う。
「でも、私は大好きな旦那様に似ている男の子がいいなぁ」
 不意打ちだ。
 ここ最近ではこんなふうに不意を打たれることなんてなかっただけに、その効果は劇的だった。
 火原はぱっと香穂子を解放した。その顔は真っ赤である。香穂子がそれを見てくすくすと笑う。
「じゃ、ご飯食べながら、名前考えましょう」
 香穂子は火原の手を引く。火原はもう片方の手で火照った頬を隠しながら、それでも笑顔で頷いた。

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サイト4周年記念リクエスト作品です。リクエスト内容が「火原と香穂子の結婚後。妊娠6ヵ月くらいのいちゃいちゃのろけ話」というのをいただきまして。私このかた妊娠した経験もございませんし、まぁ友達は妊娠したりしていらっしゃいますがあんまり詳しい話もしたことないので、体験を生かした話が出来ない心苦しさを思いつつも何とか「いちゃいちゃ」に傾こうとして、何だか微妙にいちゃいちゃしていないような感じの話になってしまいました。もっとバカップルぽいものも思いつきはしたものの、それだけ書いてもなぁ(いや、そういうのはそういうので好きですが)と思ってこの形に………。いかがでしたしょうか?
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