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ケーキを焼こう。
そう思いついたのは二週間前。
それから本を買って、家に眠っていた道具を引っ張り出し、材料を買って練習を重ねること、十七回。明日はいよいよ本番だというのに、香穂子の目の前にはぺしゃんこのスポンジが鎮座ましましている。
「………………………」
じんわりと浮かぶ涙を手の甲で拭う。泣いている場合じゃない。
壁に掛かっている時計を見ると、夜の十一時半過ぎ。心配して何度ものぞきに来ていた母親ももう布団に潜っていて、家の中はしんとしていた。
大丈夫。落ち着いてやれば大丈夫。時間はまだある。
何度もそう自分に言い聞かせた。
使ったボウルや泡立て器を洗って、一からやり直す。
十二月十二日。
それは火原の誕生日。
一ヶ月以上前から、何をプレゼントしようかずっと考えていた。
欲しいものがないかそれとなく訊いたが、芳しい答えは得られなかったし、自分でも考えれば考えるほどわからなくなっていた。
CDショップ、楽器屋、雑貨屋、スポーツ用品店、メンズ服の専門店。時間を見繕ってはあちこち歩いて回ったが、これだ! と思えるものはなかった。
そして、たまたま入った本屋でコーナーが作られていたケーキの本を見たときに香穂子の心は決まった。
ケーキ作りは簡単じゃない、ということは知っていたが、何回か練習すればちゃんと出来るようになると思っていた。分量通りに材料を揃え、レシピ通りにやれば大丈夫だという話も聞いたことがあったし。
だが。
香穂子の期待を裏切り、オーブンから姿を現すのはいつでも予想の半分も膨らんでいないスポンジだった。
甘い匂いが充満するキッチン。
はじめはいい匂いだと思えたバニラエッセンスの香りも、もはや苦痛でしかない。
唇を噛み、目に力を入れて涙がこぼれるのを防ぐ。
明日持って行くための、可愛い紙袋、ケーキの箱、リボン。それらが、ダイニングのテーブルの隅で出番を待っている。
瑞々しいイチゴが冷蔵庫の中にある。
そして、火原の驚く顔と喜ぶ顔が見たくて。
香穂子は必死で手を動かした。
今年は十二日は金曜日で、もちろん学校がある。
期末テストも終わり、クリスマス、そして冬休みを目前に、生徒たちは浮き足立っている。
そんな校内の様子を尻目に、香穂子は一人屋上へ来ていた。
誰もいないことにほっとする。
ベンチに座り、お弁当を膝の上に広げてたが、食欲はなかった。
脇には紙袋。中にはリボンをかけたケーキの箱。更にその中には、ケーキ。
「…………………………………どうしよう…………」
「何が?」
「っっ!」
屋上へ繋がるドアの方へ背を向けて座っていたので、人が来ていたことに気づかなかった。
ましてや背後に人が近づいて来ていることも。
そして、それが火原であることを声だけで判断して、香穂子はますます声を無くした。
今、一番顔を合わせたくない人、だったから。
「ここにいたんだねー。探しちゃった」
屈託なく笑って、火原はベンチを跨ぐと香穂子の横に腰を下ろす。
幸いにして紙袋とは香穂子を挟んで反対側。香穂子は自分の体でその紙袋を隠すように、少し体を動かした。
「あのさ。今日の放課後、時間ある? 付き合って欲しいところあるんだ」
「え、あの………」
笑顔を前に、いつもなら一も二もなく頷くところを、今日は素直に頷けない。
それどころか、笑顔を浮かべる余裕すらない。
火原もいつもと違って様子がおかしい香穂子に気づいたのだろう。
「………あ、ごめん。予定あった? それなら、別にいいんだ。ごめんね」
後頭部をかきながら、火原は謝る。
「いえっ、あの、そうじゃなくて、あのっ、ごめんなさいっ」
戸惑った顔をさせてしまって、香穂子は慌てて頭を下げる。
「え? 何で香穂子ちゃん謝ってるの?」
火原は火原でそんなことを言う。
「だって、私…………」
ちらっと、自分の脇にある紙袋に目をやってしまったのが失敗だった。香穂子の視線を追って、火原が紙袋の存在に気づく。
「それ、なに?」
「ななななな何でもないですっ」
思い切り挙動不審である。紙袋を火原の視界から隠してしまおうとして、手で押しやる。
そして。
どさっ、と音がして、紙袋はベンチから落ちてひっくり返った。
「あーあ。落ちちゃったね」
素早く火原は立ち上がりベンチを回って紙袋へ近寄る。
「あああ、せ、先輩。も、もうそのままでいいですから!」
「何で?」
香穂子の制止も聞かず、火原は紙袋へ手をかけた。
紙袋を除けると、中の箱は見事に真っ逆さまにひっくり返っていた。
「あれ、これって、もしかして、ケーキ?」
慌てて立ち上がったままの香穂子を、しゃがんだ火原が見上げる。
「いえ、あの…………」
香穂子は俯いてしまい、その後の言葉を続けられない。
火原は黙って、ケーキの箱に手を伸ばす。そっと箱を持ち上げ、少し思案した後「えいっ」と声を上げながら上下を元へ戻した。それから、そのままゆっくりベンチの上に下ろす。
「これさ。もしかして、おれのために作ってきてくれた?」
優しい笑顔を向けられて、香穂子は泣き出していた。
自分でも何で泣いているのかよくわからないが、涙が溢れてくるのを止められない。
「開けてみても、いい?」
頷くのが精一杯だった。
火原は、壊れ物を扱うようにしてリボンをほどいていく。
箱の蓋を取ると、そこには潰れたケーキ。
白いクリームは箱の裏側にべっとりと付き、苺も潰れていたりあらゆる方向を向いている。真ん中に飾っていたと思しきチョコレートのプレートは、ぐっさりとスポンジの方へ深くはまりこんでいた。
「潰れちゃったね………」
その言葉を聞いたとき、香穂子はしゃがんでわんわんと声を上げてしまった。顔を覆い膝に押しつける。
「あっ。ご、ごめん!!」
自分が無神経な言葉を言ったのだと思った火原がまた謝るが、香穂子は強く首を横に振る。
「ち、違うの………っ、は、初めから、それ、潰れててっ………」
「え?」
「うまく、出来なくて………」
結局。
ケーキ作りは成功しなかった。
最後は少しはましになったものの、それでも半分くらいまでしか膨らまなかったのだ。明らかに失敗作であるそれをデコレーションして持ってきたのは、他に何も用意していなかったからだ。だが、いざとなると渡すことが出来なくて。
「でも、おいしいよ?」
涙でぐしょぐしょの顔を、上げた。
火原が指先をクリームだらけにしながら、ケーキをちぎって口に入れている。口の脇にもちょこっとクリームを付けていた。
香穂子が顔を上げたのに気づくと、火原はいたずらが見つかった子供のように笑った。
「ありがと」
チョコレートのプレートをつまんで香穂子に見せる。プレートには「誕生日おめでとう」の文字。
そして、もう片方の手でまたケーキをちぎると口に放り込んだ。
香穂子の涙はいつの間にか止まっていた。ぱくぱくとケーキを食べる火原をぽかんと見つめている。
「あ、香穂子ちゃんも食べる?」
自分の口に入れようとしていた一口を、火原は香穂子の開いた口の中に入れた。
香穂子は反射的に口を動かす。
ケーキは予想通り固かった。そしてパサパサしている。クリームも甘すぎる気がする。
「ね? おいしいでしょ?」
それでも、火原が笑って言うので、香穂子は涙を隠すために、笑んで見せた。
「っぐ」
その途端、変な声を上げて、火原が目を白黒させる。
どうやらケーキを喉に詰まらせたらしい。
「だ、大丈夫ですか!?」
お茶のパックを取り上げ、火原の口へ近づける。
火原は香穂子の手から奪うようにお茶を受け取ると、一気に吸い込んだ。
「ふは~~~~~~」
喉の支えがとれた火原は心から大きく安堵の息をもらす。
「あー、びっくりした」
「ほんとに………」
「ごめんね」
本当にすまなさそうに笑うので、香穂子もつられて笑った。
笑い出すと、今度は止まらなくなった。
口の周りをクリームだらけにしている火原の顔も、火原の指からクリームが移された香穂子の指先も、何もかもがなんだかおかしかった。
「…………………た」
「え?」
火原が何か呟いたようだったが、自分の笑い声でよく聞き取れずに聞き返す。
「ううん。なんでもなーい」
そう言って、火原はまたぱくっとケーキを口に放り込んだ。
「先輩、どこに行くんですか?」
放課後。
一緒に校門を出る。
繋いだ手が暖かい。
「どこにいこっか?」
「ええ!?」
「う~ん。どこでもいいんだけどね。香穂子ちゃんを独り占め出来ればそれで良かったんだ」
「え?」
さらりとすごいことを言われたような気がする。
うまく返せないでいると、火原が「じゃあ、公園行こうか。いつもの公園」と香穂子の手を引っ張った。
いつもの公園とは、香穂子の通学路にある小さな公園のことである。
「はい」
近くの販売機で買ってきたカフェオレを香穂子に手渡して、火原は香穂子の横に腰掛けた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
缶のプルトップに指を引っかけた香穂子は、はたと思い当たる。
「わ、私、おごりますっっ」
「へ?」
既に香穂子と一緒のカフェオレに口を付けていた火原はきょとんと香穂子を見つめ返す。
「だって、先輩、今日誕生日なのに、私、まだ何にもあげてないし!」
「貰ったよ、ケーキ」
「あ、あれは失敗作だったし! いえ、だからって缶一つをプレゼント代わりにしようなんていうわけじゃなくって、とにかく今日は先輩に何もして欲しくないというか、私が何かしてあげたいんですっっ」
「何で? あれは香穂子ちゃんが一生懸命作ってくれたものなんでしょ。失敗作とかどうでもいいよ。そういう気持ちとか、おれのこと想って作ってくれたのとかがすごく嬉しいんだし。それで充分だよ」
「でも!」
それじゃ香穂子の気持ちが収まらない。
「うーんと。じゃあね。ちょっとずるいけど、お願い事していい?」
「はい! 何でもどうぞ!!」
姿勢を正し、膝の上に手を置いて火原の方を向く。
「あ、そんなに改められると困るんだけど…………えっとね。キス、していい?」
「えっ?」
戸惑っているうちに、すっと火原の方から寄ってくる。
綺麗な肌してるな、なんて今はどうでもいいような事を思っている間に唇が触れあっていた。
火原のそれは冷たくて、意外な感じがした。
「へへ」
唇が離れると、火原は照れたように笑った。ように、というより照れていた。でも、すごく嬉しそうな顔をしている。
「先輩、甘い匂いがする」
それは香穂子が作ったケーキの匂い。
もう二度と嗅ぎたくない、と思うまでの匂いだったのに、今は嫌じゃない。
「香穂子ちゃんもおんなじ匂いするよ」
「ふふ」
そして。
どちらからともなく近づいて、もう一度、キスをした。
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