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「ずばり! 将来の夢は何ですか?」
マイクに見立てたペンを天羽に突きつけられてた火原がぱっと思い浮かべたのは、エプロンをした香穂子が火原が仕事に出かけてるのを家の門のところまで出てきて見送ってくれている、というものだった。ちなみに香穂子の腕の中には赤ちゃんが抱かれていて、香穂子がその小さな手と一緒に火原に手を振っている。
新築したばかりの一戸建て。可愛い一人娘が生まれたのをきっかけに引っ越した家だ。娘がもう少し大きくなったら犬を飼うのもいいなんて話が出ていたり。
ふわふわと浮かんでくる想像は止めどない。
想像するばかりで答えない火原の横で、香穂子が先に答えた。
「今すごくヴァイオリンを弾くことが楽しいから、ずっと続けていけたらいいなって思う。将来のこととか今まであんまり考えたことなかったんだけど、最近はたくさんの人に、こんなに素敵な音があるんだよって教えられたらいいって思う。私が、感じたみたいに」
火原の想像は、ばちんと弾けた。
「はぁぁ~~~」
深いため息が漏れ出てくる。ため息はそのまま屋上のコンクリートで出来た床に落ちていく。
練習しようとケースから出したトランペットにはまだ一度も口を付けることなく、火原の手の中にある。
自分が情けなかった。香穂子の横にいるのが恥ずかしかった。
コンクールが終わって早二ヶ月。季節は夏を迎えようとしていた。
予想外の展開、たくさんの想いが生まれ、忘れられない思い出を作ったコンクール。その中でもピカイチだったのが香穂子。普通科から、全くの素人で参加した彼女はコンクールを良い意味でかき回して、挙げ句の果てに優勝までしてしまった。ただ、ただ脱帽。
香穂子がたくさん練習をして、努力をしていたことを火原は知っていた。香穂子の音には人を惹きつける何かがあることを火原は早くから感じ取っていた。
そして、コンクールが終わって思ったのだ。
そんな香穂子に負けないように頑張りたい。もちろん香穂子に勝ちたいと思っているわけじゃない。香穂子と並んでもおかしくない自分になりたいと、そう思った。楽しいというだけで奏でていたトランペットを、そうじゃなくて自分を表現するためのものにしようと、そのために自分と向き合ってたくさんたくさん考えて行こうと、そう思った。
それは事実。
だけど。
今の火原は、以前と何ら変わっていなかった。
楽しいことを考えて、そればかり追求して。毎日が楽しいのは楽しいことを考えてばかりだったから。楽しいことを考えて過ごすのは大事だと思うし、最早それは火原にとって習慣だから止められない。だけど、楽しいことばかり考えていてはダメだと、それをあのコンクールでは学んだはずだったのに。
「こんなんじゃ、香穂ちゃんに呆れられるよ………」
「私が?」
「うわぁっ」
背後から声を掛けられて、ひっくり返りそうになった。
香穂子が屋上へ上がってきていたことに全く気がついていなかった。
火原を驚かせた香穂子はにこにこと笑って、火原の正面へとベンチを迂回して移動してくる。
「呆れたりしませんよ」
ばっちり独り言を聞かれていた。恥ずかしくて、頬が熱を持つ。
「そ、そんなことないよ! 絶対呆れちゃうよ!」
自分の情けなさを全力で肯定していることに、恥ずかしさで焦っている火原は気がついていない。
「何でそう思うんです?」
「何でって………」
香穂子は火原の横にすとんと腰を下ろして、それから火原の顔を下から覗き込む。
「そ、それは言えないよ!」
ぶんぶんと大きく首を横に振った。
「呆れたりしませんから」
「ダメ! 絶対、ダメ!!」
「先輩のケチ」
香穂子は軽く口を尖らせる。拗ねた表情に火原の胸はドキっと音を立てた。
「そういえば」
尖らせたばかりの口をもう笑みに変えて、香穂子は火原にまっすぐ視線を向けたまま話題を変える。
助かった。
だが、その思いは甘かった。
「さっき、天羽ちゃんのインタビューの時、先輩の将来の夢聞きそびれちゃってましたね」
ますますもって言えないことを、香穂子は訊いてくる。
「お、おれの夢は全然大したことないし! 香穂ちゃんみたいに人に言えるような立派なものじゃないし。おれ、香穂ちゃんが考えてること聞いて、すごく………」
最後は言葉に出来なかった。そう思っていても、香穂子の前で口には出来なかった。
尻すぼみになった火原の言葉を救ったのは香穂子だ。
「大したことないなんて言っちゃダメですよ。夢に大したこととかそうじゃないとか関係ないですもん。夢があるのってそれだけでいいことだって思うし。それに、きっと先輩の夢は楽しいことがいっぱいなんだろうなって羨ましいです」
「え?」
恥ずかしくて直視できなかった香穂子の顔をようやくじっと見つめる。
「先輩と一緒にいるといつも楽しいのは、先輩がいつも楽しくしているからなんですよ。どんなに辛いことも、悲しいことも、そのうち楽しいことに変わってる。そういうところ、私がどんなに頑張っても先輩みたいには出来ない」
「おれ、そんなスゴイことしてないよ」
「うん。だから、先輩が羨ましい。先輩みたいになれたらって、なれないのが解ってるのにそう思っちゃう」
香穂子の口から出てきた言葉たちは、火原を驚かせるのに充分だった。
火原の目に映る香穂子は火原の目標で、そこに並びたいと考えていたのに、香穂子は香穂子で火原のようになれたらと思っていたなんて。
そんなこと、思っていたなんて。
「香穂ちゃん………」
嬉しい。
さっきまで情けないと思っていた気持ちが急に軽くなる。
「香穂ちゃん」
もう一度名前を呼ぶ。
「おれの将来の夢は、その夢が叶ったときに話すね」
「えー?」
香穂子の抗議の声を、苦笑にも似た笑みで交わす。
やっぱり恥ずかしさはある。
だから、その夢が叶ったら、実はねって話すことにする。そして、その夢を叶えるためには、やはり香穂子の横にいてもおかしくないような男にならなくては。
「ねぇ、香穂ちゃん。おれ、新しい曲を練習してるんだ。聴いてくれる?」
「いいですよ」
香穂子の返事を聞くと、火原はベンチから立ち上がってトランペットを構えた。
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