[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
香穂子がおかしい。
三日ぶりに香穂子と会った火原は、いつものケーキ屋に入ってそう思わざるを得なかった。
水が入ったグラスとメニューが運ばれてきて、即座にメニューを開いた二人だったが、「じゃあ今日はザッハトルテっていうのにしてみようっ」と火原が言ったのに対して、香穂子は「ダージリンにします」とだけしか言わなかったのだ。
「え? 香穂ちゃん、ケーキは? いいの?」
いつもならあれこれ時間をかけてケーキを選ぶ香穂子である。それが紅茶一杯だけとは。
「はい」
香穂子は控えめに笑った。それがどこか寂しそうで、いつもの香穂子と違って火原は心配になる。
「どうしたの? 具合、悪いの? それなら今日はもう帰ろうか」
「あっ、具合悪いなんてことは全然ないんです! 体調はバッチリですから!!」
顔の前で慌てて両手を振りながら、香穂子は火原の言葉を否定する。
「けどお昼ごはんの時も、半分くらいしか食べてなかったよね。………ホントに大丈夫?」
香穂子が注文したものはオムライスだったが、それほどのボリュームはなかったはずだ。それでも香穂子はその皿のものを平らげることが出来なかった。残りは火原の腹の中に収まっている。
「大丈夫です!」
確かに顔色も悪くないし、食べること以外に関しては普通だった。
腑に落ちないながらも、香穂子がそういうのでは納得するしかなかった。
注文通り運ばれてきたザッハトルテを火原は一人で食べることになる。香穂子が紅茶だけなのに自分だけがケーキを食べているというのは、なんだかおかしな気がする。
火原は早く食べてしまおうと、せっせとケーキを口へと運んだ。
香穂子がその様子をじっと見つめている。目が次々に口へと運ばれていくケーキを追っている。
食べにくい。
「………一口、上げようか?」
上目遣いに香穂子を見た火原は、そう申し出てみた。
だが、香穂子は慌てて首を振った。今の今まで火原のケーキを目で追っていたことを意識していなかったような慌てぶりである。
「いえっ。いいです! ごめんなさい、食べにくかったですねっ」
香穂子は慌てて紅茶の入ったカップを持ち上げると、俯いてそれに口をつけた。
春。四月である。
桜はもう殆どが散ってしまっていた。新緑が溢れる季節。
火原はこの春、無事大学生となった。音楽学部へと進んで順調な大学生活を滑り出していた。アルバイトも始めたし、大学ではまたオケ部に所属した。
一方の香穂子は三年生。去年、二人が出会うきっかけともなった学内コンクールで総合優勝を果たした香穂子は、音楽科へと編入した。これは異例のことだった。そして、彼女はそのまま音楽学部へ進学するつもりで日々ヴァイオリンの練習に明け暮れている。
そんな二人だったから、なかなか会えない日が続いた。デートも週に一度。物足りないがしょうがない。その分、会えたときはいっぱい楽しもう、と火原は張り切っていた。
だからこそ、香穂子の様子がおかしいとそればかりが気になって楽しむどころではない。
ケーキ屋を出てしばらく歩く。交わす言葉はいつものようで、こうしている限り香穂子は変わりない。
特にあてがあるわけでもなく、ぶらぶらと歩く二人はいつしか公園へと来ていた。結構な距離を歩いていたので、少し汗ばんでいる。冷たいものが無性に欲しかった。
「アイス、食べよっか」
火原は香穂子の答えを待たずに公園の屋台へと近寄っていく。
その後ろを香穂子はついていくが、その顔はやや翳っている。
「香穂ちゃん、どれにする?」
屋台の前に立った火原は、香穂子が屋台を覗きやすいようにと少し体をずらした。
だが、香穂子は火原の後ろに立ったまま、そこから動こうとしなかった。
「私はいいですから」
またおかしな香穂子が現われていた。
「ホントにどうしたの? アイス、嫌いじゃないよね」
「嫌いじゃないですけど」
香穂子が困ったように笑う。
結局屋台に背を向けて、何も買わずにそこから離れた。
変な沈黙が二人の間に落ちる。
「何か悩みがあるの? おれには話せない?」
「そんなんじゃないんです! 先輩に心配かけるようなことじゃないんです」
「でも、香穂ちゃん、今日はちょっとおかしいよ。気になることあるんじゃない?」
公園の奥にあるオブジェの傍のベンチに並んで座った。
春の陽気に誘われて外出してくる人が多い。公園も賑わっていた。
二人が座るベンチの少し先で鳩に餌をやっている親子連れへ香穂子は視線を向けていた。火原はそんな香穂子の横顔を見つめている。香穂子が話してくれるのを待って。
「………あの、言っても笑いません?」
火原にじっと見つめられて、とうとう香穂子は話す決心をしたようだった。
「笑わないよ!」
火原は強く請け合った。
「この間、身体計測があったんです」
そう言えば、そういう時期だなと思う。来週は大学でも行われることになっていた。
「それで………」
香穂子が言いづらそうに言葉を探している。
「その……………。体重が、増えてて……だから、ちょっとダイエットしようと………」
香穂子の頬が赤く染まる。
「ええっ!? 香穂ちゃん、全然太ってないよ! ダイエットなんて必要ないよ!」
恥ずかしそうにしている香穂子を上から下まで見ながら、火原はそう返した。
事実そうなのである。ヴァイオリンの練習と授業がハードなのか、出会った頃よりほっそりしたんじゃないかと思っていたくらいなのだ。
「いえ、三キロも増えてて………」
火原にはその数字がいまいちピンと来ない。そんなに大した数字だろうか。
「香穂ちゃん、ちょっと立ってみて?」
「え?」
「ほら、早く」
香穂子を急かす火原は既にベンチから立ち上がって、香穂子の前に立っていた。
わけがわからないながらも、香穂子は急かされるままに立ち上がった。
「うん、じゃあ」
何の前触れもなく。
火原はその両腕に香穂子を抱え上げた。所謂お姫様だっこである。
「きゃあ!」
びっくりしたのは香穂子である。短く悲鳴を上げたため、近くにいた人たちが何事かと振り向く。
予想もしていなかった事態と、人に見られている恥ずかしさで、香穂子は更に顔を赤くした。
「香穂ちゃん、全然重くないよ。平気平気! 何も気にすることないよ!」
火原は周りの視線など全く気にしていない。見られていることにも気づいていない。
「せ、先輩っ。下ろして下さいっ」
「というか、もっと食べても大丈夫じゃないかなぁ」
「先輩ったら!」
嘆願されて火原はようやく香穂子を地面に下ろした。
下ろされた香穂子はほうっと息を吐き出している。その頭のてっぺんに向かって火原は言葉を継いだ。
「でも、香穂ちゃんが太ってようと痩せてようとおれは好きだから、どっちでもいいよ」
香穂子は俯いていたから、火原からはその表情がよく見えなかったが、香穂子の顔はこれ以上なく真っ赤になっていた。
INDEX |