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「たっ、大変なのだ~~~~~」
大声を上げるリリが鼻の先に現れて、火原は仰け反った。
「リリ! どうしたの?」
「何があったんだい?」
一歩先へ行ってしまった柚木がその場で立ち止まって振り返る。
「大変なのだ!」
中空をひゅんひゅんと右往左往しながらリリは両手を大きく振り回す。こんなに忙しく動いているリリをこれまでに見たことがなかった。
「何が?」
うまくリリの動きを避けながら、続きを促す。
「日野香穂子が記憶喪失になってしまったのだ~~~!」
「えっ!?」
衝撃の内容に、動きが止まった。
「何だって?」
柚木も耳を疑うような表情になる。
「全部、何もかも忘れてしまったのだ~~~!」
更に激しく動き出したリリを避けることが出来ずに、火原は額にリリの蹴りを受けた。
「いったい、どういうことなんだ」
ため息交じりに言葉を発したのは土浦だ。
「記憶喪失って、何で急にそんなことになるんだ? 頭でもぶつけたのか?」
リリが大騒ぎをしてまわったおかげで、コンクール参加者全員に香穂子が記憶喪失になったことが知れ渡った。今、屋上には参加者全員が集まって、一つのベンチに座って途方にくれた顔で俯いている香穂子を囲んでいる。
「………………彼女に、何かしたのか?」
月森の質問にリリは「うぐっ」と言葉を詰まらせた。
どうやら原因はリリにあるらしい。
月森と土浦が同時に呆れたため息をつく。
「何があったんだい?」
しょぼくれているリリに優しい声で柚木が訊いた。
「………思い出して欲しいことがあったのだ………。日野香穂子はそのことを全く覚えていないと言い張るから、ちょっと思い出して貰おうとして」
「魔法を使ったの?」
リリは頭を垂れる。
「呆れた奴だな」
「迷惑な」
二方向から容赦ない言葉をぶつけられ、リリは更に小さくなる。
火原はそんなやり取りを背に、ベンチで肩をすぼめている香穂子の前にしゃがみこんだ。俯いている顔を覗き込む。
「大丈夫?」
香穂子のひざの上にある手は力強く組み合わされている。少し、震えていた。
その手を、火原は無意識に自分の手で包み込む。
見上げた香穂子の目は初めて見るものだった。おどおどと落ち着き無く動いている。怯えている小動物のように。香穂子だけど、まるで香穂子じゃない人のようだ。
記憶喪失になったことなんてないが、今、香穂子がとても不安なことは想像が出来た。そしてそれは自分が思っている以上のものなのだろうとも。
「魔法で、戻せないのかな?」
ようやく志水が発言した。
「出来るんなら、こんなに大騒ぎしてないだろう」
「リリちゃん、やってみたの?」
土浦が答えたことにますます落ち込んだリリを気遣って、冬海が問いかけるがリリの返事はとても小さくて力のないものだった。
そのやりとりは全て香穂子の耳に届いている。火原の手の中で、香穂子の震えは止まらない。
「ひとまず、日野さんをどこか落ち着けるところに移動させたほうがいいんじゃないかな」
柚木が提案する。その一言で、全員の視線が香穂子を向いた。
気配でそれと察したのだろう。香穂子が握る手に力がこもった。
不意に火原の中に強い感情が湧き上がる。
何で、誰も香穂子のことを心配しないのだろう。気遣ってあげないんだろう。原因を突き止めたり解決方法を探すことも重要だが、今は何より不安がっている香穂子の気持ちを少しでも和らげてあげるほうが大事に決まっているのに。しかも、香穂子の記憶喪失を治す方法がわからないなんて、香穂子を更に不安にさせるようなことまで、香穂子の目の前で言うなんて。
その感情は、怒りに近い。
「おれ、日野ちゃんを家まで送る」
香穂子の手を包み込んだまま、首だけ後ろに向けて全員に宣言する。
「それなら、僕の車で送らせようか」
すかさず柚木が申し出たが、首を振って断った。
「いい。おれがちゃんと送るから」
火原の雰囲気がいつもと違っていることを、全員が敏感に感じ取ったのだろう。そのことについてもう誰も何も言わなかった。
「日野ちゃん、帰ろう」
出来る限りの優しい声で、香穂子の手を取る。香穂子の視線が初めて火原を捉えた。
「送っていくから。ね?」
香穂子からの返事はなかったが、火原から視線を逸らさなかったことを肯定の意味と取り、火原は立ち上がる。それに引っ張られるようにして香穂子もベンチから腰を上げた。
「火原、宜しくね」
香穂子を促し、屋上を出て行く火原に柚木が最後に言葉をかける。
「うん」
短く頷いて、火原は屋上を後にした。
「えっと、きみは星奏学院の普通科の二年生で、学内コンクールに参加してるんだ。それでおれとか、さっきみんなと出会ったんだよ。きみの楽器はヴァイオリン。今までヴァイオリンをやったことがない素人だってきみは言ってたけど、おれ、きみの音がすごく好きなんだ。ちなみに今は第二セレクションが終わったばかりだよ」
近くに他の人がいれば、そのわかりづらい説明は何だと突っ込まれそうなことを、一生懸命喋っている。
火原は香穂子のことを何でも知っているわけではない。むしろ知らないことのほうが多いと、自覚している。それでも、知っているだけのことを出来るだけたくさん香穂子に伝えたくて、言葉を並べているのだ。
一方の香穂子は、火原が話すのに任せてただ黙って横を歩いていたが、ひとしきり火原が話し終わると、口を開いた。
「それで、あなたは?」
思わず息を呑んでいた。
他人行儀な言い方と、本当に香穂子が火原のことを忘れてしまったのだという実感に、呼吸が苦しくなる。
「お、おれは」
それでも、香穂子を不安にさせたくない一心で笑顔を取り戻した。
「火原和樹。音楽科の三年生。誕生日は十二月二十二日でB型。好きなものはカツサンド。購買部のカツサンド、最高に美味しいんだよ~! あれなら一度にどれだけ食べても飽きないよ。今度一緒に食べようね! あとトランペットを吹くのが好きだよ。すかーっとするんだ。気持ちいいよー。ぱぁーっと音が広がるんだ。それからね………」
続けようとした言葉を飲み込んだ。
香穂子が小さく笑っていた。
「日野ちゃん………」
「あ、ごめんなさい」
自分が笑っていたことに気がついていなかったのだろう。慌ててその笑みを引っ込めた。
「謝ることじゃないよ! でも、何が面白かったのか教えて欲しいな」
少し逡巡して香穂子は答えた。
「面白かったんじゃないんです。………好きなものを本当に嬉しそうに話すから、なんかいいなって思って」
再び、香穂子は口元に笑みを浮かべていた。
唐突に、その感情は火原の内側からせり上がってきて、そのまま外に溢れ出しそうになる。
今、火原の横を歩いている香穂子が、途轍もなくどうしようもなく愛しい。
不安の中でも笑う香穂子を守りたいと、心から強く想う。
「日野ちゃん」
「はい」
「もう一つ、付け加えたい好きなものがあるんだ」
「はい」
「おれ、きみが、日野ちゃんが好きだ。きみが困ってる時は助けたいし、不安な時は傍にいたい。もちろん楽しいこととか嬉しいこととかあったら、一緒に楽しみたいし喜びたい。本当にきみのことが好きで、どうしたらいいのかわからないくらいだよ。おれ、きみの力になるから、がんばるから………だから」
記憶を取り戻して、とは言えなかった。それは香穂子が一番願っていることだろうから。
「だから、このことだけは覚えてて。おれがきみを好きだっていうこと」
火原の突然の告白にも関わらず、香穂子はしばらくすると微笑んだ。
「ありがとうございます」
小さなお礼は確かに、火原の耳に届いていた。
「火原先輩!? どうして?」
玄関に突っ立っている火原を見て、香穂子が心底驚いている。
昨日、香穂子の家を辞去するときに「迎えに来るから」と香穂子に言っておいたのに、何故こんなに驚かれるのか。
いや、その前に。
香穂子の雰囲気が昨日と違っている。そう、これは以前の香穂子のものだ。
「日野ちゃん、もしかして記憶が戻った!?」
「え………? あ、そうみたいですよ。といっても、記憶喪失になった記憶がないんですが………」
膝から力が抜けてその場に膝をつくところだった。
「良かった………」
「先輩?」
「良かった、日野ちゃんが記憶を取り戻して。ホントに良かったよ」
「先輩………」
安堵の余り涙が出そうになるのを堪えて、代わりに元気な笑顔を見せる。
「じゃあ、学校行こう! みんな心配してたから。今の日野ちゃんみたら、みんな安心するよ。特にリリは大喜びするよ」
「はい」
並んで、学校までの道のりを歩く。
「先輩」
家を出てすぐ、香穂子が話しかけてくる。
「何?」
「先輩にも、いっぱい心配を掛けちゃったんですよね、私。ごめんなさい」
香穂子は立ち止まって、頭を深々と下げた。
「日野ちゃんが謝ることじゃないよ!」
そう言ってから、昨日も同じようなことをこの辺りで香穂子に対して言ったことを思い出す。
そして、そのまま火原が香穂子に告白したことも、自然に繋がって思い出された。
香穂子の顔を見て、香穂子が記憶を取り戻していることに安堵して、すっかり忘れていたのだ。
(………覚えてない、んだろうな)
頭を上げて、火原の顔をじっと見つめている香穂子を見つめ返す。
記憶喪失だったことの記憶がないと言っていたから。
がっかりしたような、安心したような、何だか変な気持ちだ。
でも、火原の中には確かに気付いた想いがある。それは変わらない。
「火原先輩?」
動かなくなってしまった火原に香穂子は首を傾げていた。
「ごめんごめん。行こう」
火原が促して、再び並んで歩き始める。
また今度、ちゃんとこの気持ちを伝えよう。
それまでに、もっともっと香穂子のことを好きになっていよう。いや、もっともっと好きになるのは間違いない。
だからその時には、ありったけの気持ちを、ありったけの想いを、精一杯伝えるから。
―――そしたら、また聞いてくれる?
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