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きみの笑顔の理由を、おれは知ってる―――。
視線の先で、香穂子が微笑んでいた。こちらまで嬉しい気持ちが移ってくる笑み。とても幸せそうな笑みを浮かべた香穂子の横顔。
ハッと気付いたときには、かなり長い間、香穂子を見つめていた。
そのことが急に恥ずかしくなって、火原は踵を返すと走ってその場を後にした。
だが、香穂子の笑顔は、火原の脳裏に焼き付いてしばらく消えそうにない。
知らない間に森の広場まで走ってきていた火原は、一つのベンチを占領してそこでようやく大きく息を吐き出した。
胸が、心臓が、ドキドキと大きな音を立てていた。今、全力疾走をしてきたから、ではない。練習室の裏庭からここまでの距離は火原にとって大した距離じゃない。息切れだって全くしていない。
だから、このドキドキは別のところに原因がある。
香穂子の笑顔を見たせいだと、思い至るのに時間はかからなかった。
あんな笑顔を見たことがなかった。
また見たいと思った。
ドキドキするけど、でも、火原も嬉しくなるような笑顔。
笑顔は誰のだって素敵なものだけど、香穂子のは特別だった………。
自分がにやけていることに、気がついていなかった。
「火原先輩?」
怪訝そうな声で我に返る。
「日野ちゃん!」
少し遠巻きにした位置で、香穂子が火原の様子を窺っていた。
落ち着いていたドキドキがまた高らかに鳴り始める。知らず、頬も紅潮していた。香穂子の笑顔が頭の中でまたクローズアップされる。
だが、当の香穂子はその笑顔ではなく、苦笑しながら首を傾げて何かを問いたいような表情。
「何か、楽しいことあったんですか?」
「えっ? ううん! 違うよ」
楽しいことじゃなくて、嬉しいこと。
何で、自分でもこんなに嬉しいのかわからないけど。香穂子のさっきの笑顔のせいだってことはわかってるけど。
「そうですか」
苦笑が解けて、普通の笑顔になる。
よく見る香穂子の笑顔。
さっきのとは、違う。
さっきの、あの笑顔が見たい。
だけど、そう簡単に見られるものではないことを、火原は直感で感じ取っていた。
あれは特別なもの。
だからこんなにもドキドキしている。
「先輩、今日はいつもと何だか違う感じ」
「そうかなっ」
それは香穂子のほうだと、火原は言いたい。
「そんな気がするだけなんですけど。適当です」
ちろっと舌の先を出して、また笑う。今度はいたずらっ子がするような笑い。
これも見たことのない香穂子の笑顔だったが、さっきの笑顔を見たときのようにはドキドキしない。
「あ」
不意に香穂子の視線が、火原から逸れた。火原を通り越して、その背後へと向けられている。
火原は香穂子の視線を追って振り返ろうとして、動きを止めた。
香穂子の顔には、あの、特別な笑みが浮かんでいた。
こんなにすぐ、見ることができるなんて。
だが。
ドキドキは、一つ大きな鼓動を体中に響き渡らせると、急速に収まってしまった。
あまりにドキドキが激しくて、このままでは自分の心臓が壊れてしまいそうな気になった火原は、改めて香穂子の視線を追った。香穂子が見ているものを、火原も見た。
あまりに大きく脈打ったせいだろうか。
目の前が一瞬暗くなる。
香穂子が見ているものから目を逸らし、香穂子に視線を戻したら、視界が色褪せて見えた。
消えてしまった鼓動、頬の熱。
香穂子が、特別な笑顔をしていた理由を、悟った。
「日野ちゃん」
名を呼ぶ。
「は、はいっ?」
慌てる香穂子の声。
「おれ、用事思い出したから、行くね」
ここを去るのに理由なんていらないはずなのに、そんな言い方をしていた。
「え? あ、はい」
香穂子の頬が、真っ赤になっている。それは、さっきの火原のよりも鮮やかだと思われた。
「じゃあ、またね」
返事も待たずに火原は歩き出していた。香穂子が見ていた人がいるのとは逆の方向へ。早足に、小走りになりそうになるのをどうにかこうにか堪えた。
あの特別な笑顔は、特別な人の為にあるものだった。
そして。
それは自分ではない。
―――おれが、きみに特別な笑顔をさせる人だったら、良かったのに。
おれが、きみに特別な笑顔をさせる人になりたかった。
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