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「うわぁ………」
最後のほうは殆ど吐息となっていた。見えない吐息は夜空に溶けて消える。
すぐ横でそんな香穂子の声を聞いた火原は、自慢げに胸を反らせて香穂子と同じものを見上げる。
山の頂上に近いそこは合宿所から二十分ほど歩いて着く。別に誰も知らない特別な場所、というわけではないが、今この場所には火原と香穂子以外誰もいない。
夏休みを利用した合宿一日目の今日、この山までバスで登ってきてそのまま練習。明日から五日間続く練習の日々に備えて、みんな早々と寝てしまっただけだ。最終日はいつもここは全員が集まって思い思いに最後の夜を楽しむ。
だけど、今夜、今この時だけは香穂子と二人きり。
「ねっ、香穂ちゃん」
火原は香穂子の腕を軽く取る。
口を開けて見上げていた香穂子は、その仕草に火原を見る。火原はその腕を引っ張って一緒に並んで座るよう促す。引っ張られるままに座った香穂子はそこで腕を解放されたが、火原の要求はそこでは止まらない。
「ほら、こうしてみたらもっと綺麗だよ」
火原は渇いた草の上に大の字に転がった。
火原が求めていたことを理解して、香穂子も笑顔を見せると仰向けに寝転がる。
「ホントだ………」
視界一杯に広がる満天の星空。こうして寝転がっていても手を伸ばせば届きそうな気がするくらいに近く感じる。星が瞬きを繰り返している。星明かりという言葉の意味がよく解る。
「綺麗………」
耳をくすぐる、吐息のような香穂子の声。
「うん」
火原も静かにそれに応えた。
それきり、二人は言葉を交わすこともなくただ星空を見上げていた。
周りから聞こえる虫の音がその静かな空間に流れているだけ。
だがそれが十数分も続くと、黙ったままの香穂子が気になり始める。
「香穂ちゃん?」
静寂を破って、とうとう声を掛けた。
だが返る答えがない。
「香穂ちゃん?」
半身を起こしねじって、横に並んでいる香穂子を覗き込んだ。
香穂子は星空を見つめてはいなかった。その瞼は閉じられている。
「寝てる………?」
一応、問いかけの形ではあったが答えがないことはわかっていた。
火原は前に手を突いて身体を支えると、香穂子のほうへ身を乗り出してその顔を覗き込んだ。
ややもすると、寝息が聞こえるようになる。
それで初めて気がつく。
疲れていたのは香穂子も同じだったのだ。
(悪いこと、しちゃったな………)
この星空を早く見せたくて、そのことしか考えていなかった。
さわさわと草を撫でる風が火原と香穂子とを平等に撫でていく。
「ごめんね」
小さく呟いてみたけれど、もちろん香穂子には届いていない。それが解っていても言わずにはいられなかった。
だが、その一言が少しだけ火原の心を浮上させる。
見つめる香穂子の寝顔は穏やかで、気がつけば笑みを浮かべていた。
(香穂ちゃんの寝顔、初めて見たかも)
無防備に晒されているその顔。
火原は頬を少しだけ赤らめていた。笑みはしばらく消えそうにない。
ずっと見ていたいと、そう思った。
起こしたほうがいいとわかっている。ここで一晩過ごすわけにもいかないし、何よりちゃんとした布団で眠るほうがいいに決まっている。
だけど。
(俺、どれだけワガママなんだろ)
でも、火原の我が儘はどこまでも尽きないに違いない。
香穂子の寝顔をずっと見ていたい。独り占めしたい。それは寝顔だけじゃなくて、香穂子を、香穂子の時間を、全てを。
それがどれだけ貪欲で利己的なことなのか、わかっていても。
香穂子は火原のものではないのだから。
それでも、求めずにはいられなくて。
こんな黒い部分を今まで知らなかった。香穂子と一緒にいるとそのことに気がつかされるようになったのはごく最近のこと。
「ごめんね」
もう一度謝った。
そして―――。
火原は前髪が流れて顕わになっている香穂子の額に口付けを一つ落とす。
香穂子は気づかずに、寝息を立て続けている。
(もう少しだけ………)
あと少しだけでいいから。
このままで。
火原は香穂子の横にまた仰向けになって転がった。
無造作に放り出されている香穂子の左側の手のひらを、自分の右手で柔らかく包み込む。
そして、火原も瞼を閉じた。
瞼の裏には、閉じる直前まで映っていた星空の残像。それが消えるのと入れ替わるようにして浮かんできたのは、星空を見上げていた香穂子の横顔。そして笑顔。
思い返す火原の口元にはまた笑みが浮かんでいた。
何だか背中がしっとりして冷たい。
「はっ」
がばっと身体を起こして、キョロキョロと首を回す。
靄が周りを覆い隠していた。太陽はまだ出ていないのか、冷えた空気だけが肌に当たる。
一瞬どこにいるのかわからなかった。
「まずい!!」
火原は横に寝ているはずの香穂子を探す。
香穂子は昨夜横になったままの姿でまだ寝息を立てていた。
「香穂ちゃん、起きて! 香穂ちゃん!!」
慌てて身体を揺らして香穂子を眠りから呼び起こす。
「う………ん………」
揺さぶられた香穂子はゆっくりと瞼を開く。
覗き込んでいる火原の顔が真っ先に視界に入ったようで「火原先輩?」とまだ眠たげな声を出す。
「起きて! 合宿所に戻らなきゃ」
引っ張られるようにして身体を起こした香穂子は、朝靄に煙っている周囲を見回すが、今自分がどこにいるのか未だにちゃんと把握していないようだ。
「俺たち、外で寝ちゃったんだよ」
「外で?」
続けて何故だと問いたいようだが、それを待たずに火原は香穂子を立ち上がらせる。合宿所へ向かって香穂子を引っ張って走り出しながら、火原は手短に答える。
「昨日、星空を見ながらそのまま寝ちゃったんだ」
香穂子は寝起きに走らされ、あまり上手く運ぶことができない足を躓かせた。
「っとと」
火原が慌てて、香穂子の手を上に引っ張って香穂子が転ぶのを避けた。
それ以降、香穂子は何も質問を重ねなかったので、二人はひたすら合宿所への道を急ぐ。
(まっずいなぁ………)
そう思いつつも、火原はちょっとだけ嬉しい気持ちを隠しきれない。
(独り占め、しちゃった)
少しだけ香穂子の手首をを握る手の力を強めた。
だから、合宿所が見えてきたとき今度は少しだけがっかりする。二人きりの時間が終わってしまった、と。
「火原先輩」
合宿所の玄関に飛び込んでようやく立ち止まると、息を弾ませた香穂子が火原を小さな声で呼ぶ。
「綺麗な星空、ありがとうございました」
振り返ると、香穂子は心から嬉しいと言わんばかりの笑顔を浮かべていた。火原はそれに見とれてしまい、咄嗟に返事ができない。
「すっごく得しちゃった。………そのまま寝ちゃったのはちょっと失敗でしたけど」
「あ、うん」
じわじわと香穂子の言葉が身に染みてきて、火原もようやく笑顔を見せる余裕が生まれる。
「良かった。喜んでくれて。おれ、一番に香穂ちゃんに見せたくて強引に連れ出しちゃったから」
「連れ出してもらって良かったです。今日も頑張れそう」
「うん。俺も頑張れそうだよ」
だって、こんなに嬉しそうな香穂子の笑顔を見られたから。
「じゃあ、頑張りましょう!」
香穂子が火原に掴まれていないほうの手で小さくガッツポーズを作る。
「うん!」
火原は大きく香穂の言葉に頷いた。
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