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「少しは落ち着いたらどう? 火原」
柚木が呆れた声を火原に掛ける。
「あー、うん」
だが火原の返事は上の空。
放課後になった途端、教室から走り出て移動した先は音楽室。音楽室では火原が所属しているオーケストラ部が練習している。本来なら、火原もそれに参加するべきだった。
だが、実際のところ、火原は窓の一つを占領して、窓枠に手をつき身を乗り出して正門前を見下ろしているのだった。音楽室は正門前を見張るのに絶好のポイントなのである。
背後ではオーケストラ部の面々がそんな火原を尻目に各自練習している。
「予定時間はまだなんだろう? そこで正門前を見張っているのはあんまり賢い方法とは思えないけど」
柚木は何も持たずに教室を飛び出していった火原を追って来たのである。その手にはさっきまで火原の荷物が握られていた。今は近くの机の上に置いてある。
ここ数日の火原の様子には、柚木も微笑ましいと思って良いものか、呆れて良いものか判断に迷った。ため息の連続、生返事、始終ぼうっとしていて昼休みにカツサンドを買うことも忘れるほど。それほど火原は放心状態にあった。
ようやく今日になって変化が見られたかと思ったら、一日中そわそわしているのである。
それもわからないではない。正門のところで待ち伏せていないだけ、まだましか。
窓から一歩も動こうともしない火原に苦笑すると、柚木はその場を去ることにした。何を言っても無駄なのだ。それならもう好きにさせておくしかない。
「じゃあ、火原。僕は帰るから。日野さんによろしくね」
「あー、うん」
火原は柚木を振り返りもしなかった。
四泊五日の修学旅行。
香穂子がそれに出かけたのは五日前だった。今日は帰って来る日なのである。
たった五日だと思っていた。去年自分が行った時は楽しくて楽しくて仕方が無くて、あっという間に五日間が過ぎていた。だから、すぐだと、すぐに香穂子も帰ってくると思っていた。
だが、現実はどうだろう。
こんなにも、長いなんて。
香穂子に会えない日が、こんなに長かったこともない。
会いたくて、会いたくて、仕方がなかった。
でも、すぐ会える場所に香穂子はいない。
そう思うと、余計に会いたい気持ちが募った。
毎晩、香穂子が電話を掛けてくれていたが、それは僅かな時間でしかなかった。メールだってそれほどやりとりはしていない。きっと去年の火原のように楽しいことずくめで、メールをする時間もあまり割けないのだろう。
何で、おれ、香穂子ちゃんより年上なんだろう。
何度も何度もそう思った。
同じ年なら、一緒に修学旅行に行けたのに。そしたら知らない街を一緒に歩けたのに。もっともっと楽しかっただろうに。
土浦や月森が羨ましい。替わってくれたらいいのに。そんなことまで思ってしまう。
でも。
今日ようやく帰ってくる。
五時半に学校着の予定だとお昼に届いたメールに書いてあった。
旅行後に学校まで戻ってくるなんて面倒くさいと思う生徒が多いに違いない。しかし、火原はそれが嬉しい。早く、香穂子に会える。
正門前から目を離して、音楽室の中へと目を向けた。明るいところを見続けた後だったので、室内は暗く感じた。軽い目眩を覚える。
壁の時計を見る。五時を十分ほど過ぎたところだった。
もう少しだ。
嬉しくて、知らず知らずのうちに口元に笑みが浮かんでくる。
会いたい。早く会いたい。
最初に言う言葉はとっくに決まっている。
窓の外へ視線を戻し、そして火原は正門の外にバスが横付けされるのを発見した。
「帰ってきた!」
叫んで、身を翻す。
ほとんど体当たりするような勢いで音楽室のドアを開き、飛び出す。
階段は一段飛ばし、正門前まで一気に走り出ると、連なるバスから続々と生徒たちが下りてきていた。
そのまま帰途につくもの、校内へ入ってくるもの。様々であるが、火原は正門内へと歩いてくる香穂子の姿を見落とすことはなかった。
「香穂ちゃん!」
人目を憚らず、火原は声を上げた。一緒に大きく手を振る。
級友と笑いながら歩いて来ていた香穂子が顔を火原のほうへ向けた。
「先輩」
久しぶりの香穂子の笑顔。もう何ヶ月も見ていなかったような錯覚に陥る。その笑顔が眩しくて、情けないことに火原はそこから一歩も動けなくなってしまった。
「はい、これ、先輩にお土産です」
人気のない屋上。そこに場所を移動して、香穂子と火原は一つのベンチに並んで座っていた。
「試食したらすごく美味しかったから」
香穂子が手渡す箱を火原は「ありがと」と呟くように言って受け取った。
視線は香穂子を捉えたままで、手元の菓子箱へ向けようとしない。
いろんな事を話そうと思っていた。会えなかった時のことや香穂子が楽しんできた旅行の話を聞いたりしたかった。だが言葉は一向に出てくることはなく、ただ香穂子を見つめることしかできない。
この五日間で見ることが出来なかった分を取り戻すかのように。
「ほら、先輩が行く前に教えてくれたでしょう? 美味しいお店があるって。あそこで見つけたんですよ、それ」
火原がじっと見つめているのを受け止めながら、香穂子は笑顔で火原に話しかけてくる。火原が胸一杯で言葉が出ないくらい、それくらい久しぶりに会えたことを嬉しいと思っているのに、香穂子は普通に喋っている。
香穂子に会えなくて寂しかったのに、香穂子は楽しいことに気を取られていて、火原ほどには火原に会えないことを寂しいとは思っていなかったのだろうか。
「香穂子ちゃん、楽しかった―――?」
だから、ようやく出た言葉がそんな質問になってしまった。
言ってしまってから、あっと思ったが、出てしまった言葉はもう引っ込められない。
「はい」
香穂子は元気よく頷いた。
その返事に火原は更に気分を落ち込ませる。
「でも………」
そんな火原に気づいた様子もなく、香穂子が言葉を継いだ。
「先輩と一緒だったらもっと楽しかっただろうなって、何度も何度も思いました」
香穂子の笑顔がはにかんだものになる。
気持ちが一気に上昇するのがわかった。
呆れるほど単純。
だけど、香穂子のその一言がとてつもなく嬉しい。
「香穂ちゃん!」
がばっと火原は香穂子に抱きついた。土産の菓子箱が足下に落下したことには気づかない。
「そう言ってくれて嬉しい! おれ、香穂ちゃんに会えなくて寂しくて、おれも一緒に行きたかったって何度も思ったから。香穂ちゃんが帰ってきてくれたのが何よりのお土産だよ!」
それだけを一気にまくし立てた。
「先輩………」
火原の背中に、香穂子の細い腕が回される。火原は香穂子を抱きしめる腕にぎゅうっと力を込めた。
ようやく火原の顔に安心した笑顔が浮かぶ。
「香穂ちゃん、おかえり」
ようやく最初に言いたかった一言が口から出てきた。
「ただいま、先輩」
耳の傍で香穂子の声を聞いて、火原はこれ以上ない幸せそうな笑顔をした。
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