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九月一日。今日は始業式である。
火原は、香穂子の家へと足早に向かっていた。
ここまでずっと上の空だった。電車に乗ったこともあまり覚えていない。いつものことなので、身体が覚えているままの行動でしかなかった。
久しぶりに、香穂子を迎えに行く。
ただそれだけのことが嬉しい。
そしてそれと一緒に、今日の火原はほんの少しだけ緊張もしている。
そのことを思うと、火原の心音が乱れだす。その乱れは全身に広がって、足元が覚束なくなる。ふわふわふわふわ。この足は確かに地面を踏んでいるのか。それすら怪しく思えるほどに。
ずっと楽しみにしていたことなのに、いざそのことに直面するとなって、こんなにも緊張しているなんて。
香穂子の家の前に着くと、大きく深呼吸をした。息を吸う音がはっきりと聞こえるくらいの大きな呼吸。
「うっわ………すっごく、ドキドキする」
自分の胸に手を当てると、高鳴っているのがよくわかる。
もう一度だけ深呼吸をして、チャイムを押した。
玄関で待ち構えていたのだろう。ドアは内側からすぐに開かれた。
「火原先輩」
ドアの隙間から、香穂子が顔だけ覗かせる。心なしか、頬が赤く見える。
それだけで、香穂子を可愛いと思っている自分に気がつき、更に胸の鼓動が高くなる。
「おはよう!」
いつものように元気良く声を出したら、緊張のせいか少し声高になっていた。知らず、火原の頬も赤くなる。
心音が大きくて、息苦しい。「うわー!」と叫びだしたい衝動に駆られる。
「おはようございます」
ゆっくりとドアは開かれて、そして香穂子がそこから出てきた。
心臓が激しく動きすぎたせいだろうか。眩暈を覚える。一瞬だけ、目の前の景色が反転した。
「火原先輩!」
香穂子の細い指が、半袖の先から伸びる火原の腕に触れる。
「あ、だいじょうぶ、うん」
首を軽く振ることで、いつもの景色を取り戻すと、改めて目の前に立つ香穂子をしげしげと見つめた。
見つめられていることがわかった香穂子は、火原の腕から手を離し照れ笑いをする。
「似合いますか?」
「すっごく!!」
即座に頷いていた。
今、火原の前にいるのは、音楽科の制服を身に着けた香穂子。
今日から、音楽科へ編入することになったのだ。火原と同じ音楽科に。
誂えたばかりの真新しい白いブラウスが眩しい。学年色である深紅のリボンが首元を飾っている。膝丈のモスグリーンのスカート。
「似合うよ」
口をついて出てきたその言葉に、香穂子がとても嬉しそうに微笑んだ。
それを見て、火原の中にあった緊張がほぐれた。顔にもようやく笑みが浮かぶ。
「じゃ、行こっか」
香穂子の手を取って、並んで歩き出す。学校から近い香穂子の家。学校までの距離はそう長くはないけれど、一緒にいられる貴重な時間。
「えへへ」
思わず笑い声が零れてしまう。
「どうしたんですか?」
問う香穂子も笑みを浮かべたままだ。
「うん。香穂ちゃんとお揃いの制服を着てこうやって登校するの嬉しいなぁって思って」
音楽科と普通科の間に隔たりを感じたことはなかった。けれど、こうして並んでいると殊の外喜んでいる自分がわかった。気づかないでいただけで、音楽科と普通科であることを、どこかで気にしていたのだろう。
ぶんぶん、と繋いだ手を大きく振った。香穂子が笑う。
これから卒業まで、同じ音楽科で―――。
不意に、振っていた手が止まる。
「火原先輩?」
急に様子が変わった火原を、香穂子が下から覗き込む。
一時消えていた笑みを慌てて浮かべる。
「何でもない!」
言い繕ったところで、香穂子がそれを鵜呑みにするとは思えなかったが、それ以外に言いようがなかった。
言えなかった。
口にしてしまうと、それは余計に現実を火原の前に突きつけてきそうで。
足掻いてもどうにもならない現実。目を逸らすことなんて出来ない。
けれども。
(卒業まで、あと半年………)
たったそれだけしか、香穂子とこうして学校に通う時間は残されていなくて。
さっき、香穂子とお揃いの制服で学校に通うことができると喜んだ自分を遠くに感じた。
一つの要望が叶うと、次の要望が生まれてくる。
それは際限がない。
もっと、もっと、同じ時間を一緒に過ごしたい―――。
「先輩」
香穂子が少しだけ手に力を込めたのがわかった。
「………………」
張り付いていた笑みが、消える。
「………あと、半年しかないんだって思っちゃったんだ」
それだけで、香穂子には充分通じた。
「半年って長いですよ」
さらりとそう言ってのける香穂子をまじまじと見つめる。
「まだ、秋にもなっていないし、冬も越さなきゃならないし、また春がくるまで季節はあと二回変わるんですから」
香穂子の笑顔は、火原の中に熱を生む。暖かい気持ちが広がる。
「そっか………そうだよね!」
「そうですよ」
たった半年。
だけど、まだ半年。
そうだ。一緒に過ごす時間はまだある。こうして同じ制服を着て並んで歩く時間もまだ。
「香穂ちゃんがいて良かった」
少しの間だけでも、ネガティブな考え方をしてしまった自分を恥じる。
正門が見えてきた。学校まではもうあと僅か。
登校する他の生徒達に混じって、正門をくぐる。
いつもなら、もう手を振らなくてはならない場所だが、今日からは違う。まだ、もう少し一緒に歩くことが出来る。
(なんだ………)
半年だけど。
こんなふうに、嬉しいことはきっとこれまで以上にいっぱいある。
(大事にしなきゃ)
香穂子と過ごす、かけがえのないこれらの時間を。
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