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授業が終わった途端、教室は喧噪に包まれる。それが昼休みとあれば、通常の休憩時間よりも賑わうのだ。
そして、柚木の隣の席にいる彼は周囲よりも昼休みを心待ちにしている。
しかし今日は些か勝手が違った。
教師が教室を出て、クラスメイトが動き出しても、火原は自分の机から動こうとしないのだ。
「火原、昼休みだよ。購買部へ急がなくてもいいのかい?」
火原は肺から全ての空気を吐き出したかのような大きなため息で、柚木に応えた。
「どうしたんだい? 具合でも悪いの?」
「そうじゃないんだけど………食欲ないんだ」
柚木は火原の言葉の真意を汲み取ろうと試みる。
今日は朝からずっと上の空だった。昨日は日曜日で、土曜日と合わせて二日、火原とは会っていない。金曜日はいつも通りで何の変化も見られなかった。土日に何かあったのではないか、と推測するのは容易かった。
肝心なのは、何があったのか、ということだ。
火原をこんなふうにさせる原因を、柚木は今のところ一つしか思い付かない。
日野香穂子。
普通科二年の彼女はこの春、素人ながら音楽科に混じって学内コンクールに参加した強者だ。簡単にへこたれない彼女は堂々と音楽科と渡り合っている。今もまだ普通科ではあるが、来年の春から音楽科へ転科するのではないかという噂がまことしやかに流れているくらいだ。
そして、火原はそんな香穂子に想いを寄せている。
火原自身、まだそれが恋であると、香穂子に特別な好意を寄せていると、気がついてはいないようであるが。
(まったく、やっかいだな………)
「何か悩んでるのかい? 僕で良かったら相談に乗るよ?」
内心の呟きなど表に一欠片も漏らさず、柚木は火原に優しい声を掛ける。
「悩んでるんでもないんだけど………」
そう言いながら、またもため息を零す。ため息と共に少しずつ元気も吐き出して、とうとう机に突っ伏した。顔だけを柚木のほうへ向ける。
その様子のどこが悩んでいるのではないのか、と問い詰めたい衝動に駆られるが抑えた。
「なんかこう………すっきりしないんだよね。こう、もやもや~っとするんだ。胸の辺り」
それはまさに恋煩いと言わないか。
「休みの間に何かあったのかな?」
辛抱強く、火原から聞き出すしかないようだ。笑みを崩さず、柚木は少しずつ火原の気持ちを切り崩していくことにする。
「休みに? ううん。何もないけど」
何もないわけがないだろう。
そう思っても、火原が何もないというのであれば、何もなかったのだろう。火原にとっては。火原が気がついていないだけで。
しかし、そのことを掘り返すのはなかなか苦労しそうだ。
(本当に、面倒だな………)
「そうかい? 具合が悪いとか悩んでいるとかいうのじゃなければ、いいけれど………。僕はこれから図書室に用事があるから行くけど、何かあったらすぐに僕に相談してくれていいからね」
「うん。さんきゅー」
力の抜けた笑みを見せる火原を残して、柚木は教室を出た。
自覚症状のないものほど、やっかいなものはない。
これほどまでに火原を悩ませているのかと思うと(火原は気がついていないが)、その原因であろう香穂子がやたらに小憎たらしくなってくる。
(見かけたら、意地悪の一つや二つ、甘んじて受けて貰うよ)
固く決意して、柚木は図書室へと足を向けた。
図書室で所用を済ませると、今度はカフェテリアへ向かう。昼食を抜くつもりはない。
「あ、柚木先輩」
出入り口のところで、香穂子と鉢合わせた。なんという偶然か。
「やあ、日野さん。昼食は済んだところ?」
人の出入りに邪魔にならないように、脇へ移動して話しかけた。
「はい」
「そう………ところで日野さん」
少し声のトーンを落とした。香穂子が小動物的な反応を見せる。柚木の小さな変化にも敏感なのは、彼女が唯一、柚木の本性を知っているからだ。
ただ、こんな人通りの多い場所では、香穂子の前だからといって、本性を晒すつもりはない。
「火原がなにやら悩んでいるんだけどね。何か知らないかな?」
「え? 火原先輩が?」
心底意外そうな顔をしたのが気に入らない。
「というよりも、何かしなかった?」
笑顔で問うたその内容は、半分香穂子を犯人だと決めつけているようなものだ。
「何かって………何もしませんよ!」
「そう? あの火原が食欲を無くしてしまうというのは余程のことだからね。日野さん絡みでしか思いつかないんだよ」
「何で、私絡みなんですか」
やっかいなことに、無自覚はここにもいた。そもそも、火原が恋情を香穂子に示していないのだから、香穂子もそれに気がつきようがないのだが、柚木が気づいているのに香穂子が気づいていないのも何だか無性に腹が立つ。
「さあ、何でだろうね」
だからといって、火原の気持ちを柚木が本人に明かしてしまうわけにもいかない。
柚木の立場が一番面白くなくて面倒ではないかということに気がついた。
「具合が悪いとかじゃないんですか?」
「本人は違うと言っているし、見た感じ、僕もそんなふうには思えなかったけどね」
「火原先輩が食欲をなくすなんて、相当のことがあったんでしょうか」
だから、お前のせいだと言いたかったが、ぐっと堪える。
「様子を見に行ってもいいでしょうか?」
おずおずと柚木に問いかけてくる。
「そんなことは僕に伺いを立てなくとも、好きにしたらいいと思うけど」
「じゃあ、行ってみます」
香穂子は軽く一礼すると柚木に背中を向けた。
これで、午後は火原も幾分か復活していることだろう。
火原ではないが大きなため息を零したくなる。
カフェテリアに入ると、人の多さに堪えたはずのため息が出そうになった。
急にカフェテリアで昼食を取るのが億劫になってきた。
(誰かに見つかる前に、人の居ないところへ移動するか)
練習室はなかなか空いていないから、あとは屋上か。
購買部へ寄る気も起こらなくなっていたから、このままだと昼食抜きということになってしまうが。
(特に空腹を覚えているわけでもないから、構いはしないさ)
柚木はきゅっと踵を鳴らして、踵を返した。
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