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「いい天気!」
カーテンを開け放って見上げた空は澄んだ青い色でどこまでも遠い。そこに眩しい光を放つ太陽が輝いていた。昨日までの冬特有の灰色の雲に覆われたぼんやりとした空模様から一転、今日は絶好のお出かけ日和。今日この日を選んで晴れてくれたのは神様の采配じゃないかなんてことまで思ってしまう。普段は神様なんて神頼みの時にしか思い出さないのに。ホワイトクリスマスかもしれないとどこかの天気予報士が言っていたけど、それは叶いそうにない。少し残念だけど、晴れただけでも十分だ。
火原と会うに相応しい天気。
「さ、仕度しようっと」
外の空気に冷やされた窓から離れる。
午前七時半。約束の時間は十一時。余裕はあるが、油断はならない。まず顔を洗うことにして部屋を出ようとした時だった。
枕元に置いていた携帯電話が軽やかな音を奏でだす。最初の数音でそれが火原からの電話だとわかる。飛びつくようにして携帯電話を手に取る。
「はい!」
『おはよう、香穂ちゃん。もう起きてた?』
「おはようございます。起きてましたよ。先輩も早起きですね」
久々の休日のはずだ。約束の時間まではまだあるのだから、もう少し休んでいても良かっただろうに。
『うん、起こされた』
誰に? と聞こうとして、火原の言葉の調子が幾分いつもより張りがなかったことに気付く。
嫌な予感がした。
そしてそれが予感ではなく、事実となるまでに時間はかからなかった。
『ごめん! 香穂ちゃん!!』
電話口で謝りながら、頭を深々と下げているのがよくわかる声だった。
『急に、今日シフトに入ってた人が熱を出してバイトに出られなくなったから出てくれって電話があって。どうしてもって言われて、断れなくて』
しばらく口が利けなかった。
どう反応したらいいのかわからないのではなく、反応できなかったのだ。
後頭部を形の無いもので殴られて、頭の中にだけ衝撃を受けている感じだ。痛くないのに目の前がくらくらする。目は開いているけど、何も目に映らない。なんだか、周りが暗く見える。
『本当にごめん! ごめんね! 明日は休みだから! 明日は一緒にいられるから!! だから、ごめんね!!』
遠くに聞こえていた火原の声が少しずつ近くなってきていた。それに伴い、香穂子の口も動き始める。
「そんなに謝らないで下さい」
『香穂ちゃん………………』
「先輩が悪いわけでも、誰かが悪いわけでもないですから。会えないのは残念だけど、その分明日を楽しみにしてますから」
口元には勝手に笑みが浮かんでいたが、それはどこか引きつっていた。電話で良かった。
本当は、怒鳴りたくて、泣き喚きたいくらいだった。顔も知らない誰かが熱を出したせいで久しぶりのデートがだめになった。ましてや、今日はクリスマス・イブだというのに! どれだけ香穂子がそれを楽しみにしていたと思うのか。どれだけ火原に会いたいと思っているのか。その人は、そして火原はわかっているのか、と。
「先輩も働きすぎで熱だしたりしないように気をつけてくださいね」
『うん………ありがとう、香穂ちゃん。本当にごめんね』
「じゃあ、明日」
『夜、また電話するから』
「はい」
それで電話は終わった。
通話を終えた電話を畳むと、香穂子はそれを思い切り上からベッドに叩き付けた。
「先輩のばかぁっ!」
実に、三週間ぶりの火原とのデートだったのだ。
電話やメールでのやりとりはしていたが、直接顔を合わせるのは十二月になってからは初めてと言っていい。
会えなかった理由は至極簡単だ。火原の都合がつかなかったのだ。もちろん香穂子も進学を控えて勉強とそしてヴァイオリンの練習に励む毎日だったが、それ以上に火原は忙しかった。忙しい一番の理由はアルバイト。大学に入学してすぐに始めたのだ。夏が終わってからはほとんどの土日にアルバイトを入れていた。午前中か午後かどちらかに入るようになっていたから、香穂子とはアルバイトに入らない時間帯を選んで会っていた。しかし、それも十一月までの話で、十二月に入ってからというもの、朝から晩までみっちりと働き始めたからそれこそ会う時間が無くなってしまった。平日は香穂子にも時間が取れないし、火原もサークル活動に勤しんでいる。
去年はなんとも思わなかったのに、今年は一学年の差をこんなにも離れているのかと感じた。たった一年。それだけなのに、大学生と高校生にはどうしてこんなにも開きがあるのだろう。同じ制服を着て並んで歩いていた頃は気付かなかった距離が今、香穂子の前にはある。来年、香穂子が大学生になったら、この距離感はなくなってくれるのだろうか?
三人分の食事でいいはずなのに、どう見積もってもそれを軽く越えている料理が並んだ夕食を終えて、香穂子は自室に戻った。外は既に真っ暗だ。開けっ放しだったカーテンを閉めて、ベッドの上へと移動する。枕元に置きっぱなしだった携帯電話に手を伸ばして、着信の有無を確認する。
何も、無かった。
誰からも―――火原からも。
携帯電話を放り出して、ごろんと仰向けに転がった。視界の隅に入る蛍光灯が眩しくて、両手の甲で目を隠す。
朝、気分が落ちてしまったままで一日を過ごしてしまった。火原はそれほどまでに香穂子の気分を左右してしまう。今更ながらに、火原がどれだけ好きかということを認識した。
こんなに落ち込んでしまうくらいなら、火原から電話があった時に「嫌だ」と正直に自分の気持ちを告げておけば良かった。会いたい。会えないのは寂しいと。本当は物わかりがいい女じゃないと。ずっとずっと楽しみにしていた。火原に会いたくて仕方がないんだと。
だが一方で、それが火原を困らせる我が儘だと解っていたから、電話で火原に謝らないで欲しいと、そう言ったのだ。我が儘を言って困らせるなんて出来ない。火原はきっと悩んでしまう。強く強く香穂子が自分を優先して欲しいと言えば、そうしてくれるかもしれない。だけど、それは嫌だ。そういう火原は見たくない。
二つのせめぎ合う気持ちに挟まれて、香穂子はまたため息をつく。重い気持ちのせいで、ベッドに体が沈んでいくよう。そのまま意識も深いところへと沈んでいく。
香穂子の意識を浮上させたのは、携帯電話の着信音だった。メールの。
メールの着信音はみんな一緒だ。着信音が鳴りやまないうちに体を起こして携帯電話を素早く掴み、開く。
どくん、と自分の心臓が音を立てたことに気付く。
火原からだ。
件名は「起きてる?」。
続く本文は「起きてるなら、窓の外を見て」。
ベッドから飛び降り、カーテンを閉めた窓へと走り寄る。勢いよくカーテンを引き、続けざまに窓を開け顔を外へ出す。
冷え切った空気が頬を刺すが、気にもならない。
「香穂ちゃん!」
それは小さいけれど、確かな声。
「和樹先輩!」
香穂子の部屋の窓の下。家を囲う塀の外で、火原がこちらを見上げていた。門柱の外灯が火原の嬉しそうな顔を照らし出している。
「良かった。まだ起きてたんだ」
火原の言葉と一緒に白い息が立ち上る。
それを見て、香穂子は弾けるように窓の傍を離れた。そのままドアに突進し、ドアを開け放ったまま階段を駆け下りる。よく転ばずに済んだと思うくらいの勢いで、玄関へ直進。リビングから「何事!?」という母親の声がした気がしたが構わない。裸足で飛び出してしまいそうなのをギリギリで抑えて、玄関の外へ出て行くと、玄関を開ける音に反応したのだろう、香穂子を的確に捉えてさっきと同じ笑顔を見せている
「先輩、どうして………」
門扉を開く時間ももどかしいくらい急いでいたから、上手く留め金を外すことができなくてやきもきする。そのうちに門扉を挟んだ正面に火原が立った。
「香穂ちゃんにどうしても会いたかったから」
何の衒いもなくするりと火原の口から出てきた言葉に、香穂子は言葉を失った。
「今日は一緒に過ごせなくて本当にごめんね。約束破っちゃって、嫌な思いさせたよね。ちゃんと謝らなくちゃって思って。明日じゃダメだって思ったから。どうしても今日言わなくちゃって。おれの勝手だけど。それに、これは早く渡したかったから」
そう言って、火原が差し出した物を香穂子は何も言えないままに受け取る。
小さなビロードの箱。門柱の明かりと背後からの玄関の明かりしかない暗がりで見るからはっきりした色は解らないが、暗色の箱に銀色のリボン。
「クリスマスプレゼント。今年はとっておきのを用意したんだ。香穂ちゃんに一番似合うもの」
「あ、ありがとうございます」
手の中の箱から火原に視線を移すと、さっきとは少し違う、得意げな笑みが浮かんでいる。それが微笑ましくて、香穂子はつられるようにして笑みを浮かべた。さっき火原を見つけてから初めて浮かんだ笑みだった。火原がわざわざ来てくれたことは嬉しいよりも驚きを香穂子に与えていたのだ。笑みを浮かべる余裕もないほどに。
「開けてみて」
「はい」
箱の大きさから中身は察せられたが、火原が得意満面になるものとなれば、楽しみだ。ほどいたリボンを火原が受け取ってくれた。ビロードの箱の蓋を開けると、暗がりでも輝くシルバーのリング。その形状も良く見て取れた。ピンクの縦長の花びらを持つ小花。それを支えている二連のリング。
「可愛い………」
ぼうっと香穂子はそれを見つめた。
「はめてあげる」
火原がてきぱきと、香穂子の手の中にある箱を取り上げて、リングを抜き取る。門柱の上に箱とリボンを置くと、リングを持っていない左手で香穂子の左手を取る。香穂子が凝視する先でするりとリングは香穂子の指に収まった。
「うん、可愛い。やっぱりこれが一番だ」
火原は満足げである。
「嬉しいです………ありがとうございます」
きゅうっと、胸が締め付けられるようだ。火原の笑顔と、火原が選んでくれたプレゼントに。火原が今目の前にいて、香穂子を幸せな気持ちにしてくれることに。苦しくなるほど、胸がいっぱいだ。
泣きそうになる。
火原は、変わらない。変わっていない。
香穂子が感じていた距離を一気に飛び越してくる。それは火原が距離を感じていないから。
香穂子だけが距離を感じていじけていたのだ。会えなくてつまらなかった。勝手にそれに距離を感じていただけなのだ。火原を目の前にしていると、そう考えた自分が情けなくなってくる。
「香穂ちゃん?」
俯いてしまった香穂子の顔を火原が覗き込んできた。
「泣いてるの?」
涙が浮かんでいるのは事実だったが、香穂子は慌てて首を振った。
「すごく、嬉しくて………」
それ以上は言葉にならなかった。
「香穂ちゃん」
「ごめんなさい」
香穂子は顔を上げて、笑みを浮かべた。泣き笑いになってしまうのは仕方がない。
「嬉しいのに泣くなんておかしいですよね」
「いいよ」
それと同時に香穂子は強い力で引っ張られていた。とん、と火原の胸に抱き留められる。背中に火原の力強い腕が回っていた。
「おかしくなんかないよ。ずっとこうしてるから、泣きたいだけ泣いていいよ」
火原の口から出たはずの言葉が、火原の体から直接響いてくる。
その心地よさに、香穂子は目を伏せた。
「私も会いたかった。すごくすごく会いたかった。本当は、バイトなんて行って欲しくなかった。私と一緒にいて欲しかった」
溢れてくる気持ちを抑えることができなくなっていた。
自分勝手で我が儘なことはいけないことだと解っていても、どうしようもないのだ。会えなければ、会いたくなる。会えたら、もっと一緒にいたくなる。その気持ちには歯止めが効かない。
「香穂ちゃん」
「我が儘なの。それはわかってるけど、ずっと楽しみにしてたから。今日は先輩と一緒に過ごせるんだって」
「香穂ちゃん、ごめ」
「謝らないでいいです」
火原の言葉を香穂子は途中で遮った。
「朝、電話で言ったことも本当なんです。先輩がバイトに出なきゃならなくなったのが不可抗力ってこともちゃんとわかってるから」
自分で言葉にして気付く。どっちも自分の本心なのだと。
「でも、そうしたらおれはバイトを断って香穂ちゃんを優先するよ!」
「それはダメです」
香穂子は火原から体を離して、きっぱりと返した。火原の腕の力が緩む。
「そんなことしたら、先輩じゃないもの。そういうこと、して欲しくないです。それに、そんなこと出来ないでしょう?」
火原が返事に詰まっている。
香穂子は自然に笑みを浮かべていた。
「じゃあどうしたらいい? どうしたら、香穂ちゃんを困らせずに済む?」
「ずっと、私を好きでいてください。私が先輩を好きな気持ちに負けないくらいに」
「好きだよ! 香穂ちゃんを好きな気持ちは、誰にも負けないよ! だけど、そうじゃなくて………」
香穂子は再び火原の胸に寄り添うと、火原の背中に自分の腕を回して、さっき火原が抱きしめてくれたのと同じ強さで、火原を抱きしめ返した。火原の言葉がまた途切れる。
「ううん。私のほうがずっとずっと先輩を好きです」
一緒にいたら、もっと近づきたいと思う。近づいたら、もっと深く近づきたいと思う。
現状じゃ物足りない。
やっぱり自分は我が儘だ。だけど、それも悪くない。
香穂子は顔を上げると、ひょいと背伸びをして火原の唇に口付けた。
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