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「どうしたの、日野ちゃん。難しそうな顔をしてるよ」
森の広場のベンチに座っていた香穂子を見つけて、火原は声をかけた。香穂子は眉間に皺を寄せて小さく唸っている。
「火原先輩」
香穂子は顔を上げて、苦笑いをする。膝の上にはページを開いたままの本が載っている。
「そうだ。火原先輩ならわかりますよね!」
「へ?」
香穂子は、その開いたままのページの一部を指さす。
「どうしても、意味が分からないんです。楽譜を見てわからなかったから、ちょっと調べてみようと思ったんですけど、ますますわからなくなっちゃって………」
「どれどれ?」
火原は香穂子の横に座って、香穂子の開いている本を覗き込んだ。
ここは一つ、先輩であり尚かつ音楽科である自分が、びしっと香穂子の疑問に答えよう。そういう意気込みで、香穂子が指さすものを見る。
「えーっと………」
だが、しかしすぐに言葉に詰まる。
その言葉は火原の記憶にはあったが、それがどういうものであるのか―――説明できない。それはつまり火原がそのことを理解していないということと等しい。
横で香穂子が火原の説明を期待して待っている。そのことが、火原に余計な焦りを与える。
「えーっと、これはね」
じわりと汗が噴き出してくる。
早く、ちゃんと答えなくちゃと思うけれど、どうしようもない。だからといって、「わかんないやー」なんて言えない。そんなこと、言えるわけない。
「どうしたんですか?」
だからその声に、天の助けと咄嗟に思ってしまった。実際のところそれは天の助けでもなんでもなく、火原の窮地を余計に知らしめてくれるものでしかなかったが、今の火原にそこまで思い至る余裕は全くなかった。
「月森君」
香穂子と仲良く顔を上げると、ヴァイオリンケースを片手に月森が少し離れたところに立っていた。
「何か問題でも?」
「あ………うん、それがね」
香穂子が言い淀んでいる。そのうちに、月森は二人の傍へと歩み寄っていた。さっと見ただけで状況を理解したのか、月森は香穂子が指さしたままの本を上から逆さのままで見る。
「それがわからないのか?」
「うん」
香穂子がちらりと横目で火原のことを見たのがわかった。
「ちょっと、難しいよね、これ」
敢えて明るく言ってはみたものの。
情けない。
火原は気落ちするのを止められなかった。
目の前で、月森がすらすらとわかりやすく説明しているのを見て、ますます気持ちは沈む。
かっこ悪い。香穂子の前でなんたる醜態。
「そっか。なるほど」
香穂子は月森の説明を受けて、笑顔を見せた。
「なんとなく解ったかも」
「選んだ本は悪くないが、君はまだ早すぎるだろう。しかし、何にせよ、こうして音楽に対して興味を抱いて調べようと思う態度はいいことだと思う」
月森は少しだけ表情を変えた。口元を僅かに緩めただけだが。
「ありがと。火原先輩も………あれ?」
いつの間にか、香穂子の横から火原の姿が消えていた。
「いついなくなったんだろ」
「さぁ………全く気がつかなかったが」
香穂子は月森と顔を見合わせて、小首を傾げた。
そこに、別の声が二人にかけられる。
「日野さん、月森君」
「柚木先輩」
いつものように優雅に歩いてくる。柚木の周りだけ空気が違うように感じられるのは何故なのだろう。
「二人とも、火原を見なかった?」
「さっきまで一緒にいたんですけど。いつの間にかいなくなっていました」
「そう………じゃあ、どこへ行ったかは解らないね」
「すみません」
「君が謝るようなことじゃないよ………だけど、困ったな」
柚木は顎に手を当てる。
「先生が探しているんだけど。しょうがないな。また別の場所を探してみよう」
「私も手伝いますよ」
「そう? それならお願いしようかな」
「………では、俺も」
「助かるよ」
にっこりと、柚木は香穂子と月森に微笑んで見せた。
「はい。これよ」
「ありがとうございます」
志水は入荷したばかりの本を受け取ると、カウンターを離れて空いている席を探す。早く読みたい。
「あれ………」
視線の先に、知った顔を見つける。
「火原先輩………」
席を一つ確保してそこに座って睨みつけるように本を開いているのは、火原その人に間違いない。
「何を、しているんだろう………本を読んでいるのか………図書室だし………」
目をめいっぱい開いて、瞬きもせずにページを繰っているが、そんな恐ろしい顔をして一体どんな本を読んでいるのか気になり、ゆるゆると火原のほうへ近づいていく。
「………………うーん………」
本を立てて読んでいるので、近づいただけでその本のタイトルが読み取れたが、志水が思うに怖い顔をして読む本ではない。かつて、志水も読んだことがあったが、すごくわかりやすかった。
「火原先輩」
声をかけてみたが、反応がない。呼ばれたことに気がついていない。集中しているのだろう。
それなら邪魔しないほうがいい。
志水は、ゆったりと踵を返すと近くの空いている席を見つけてそこに落ち着いた。
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