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「あとは―――………」
火原は手の中のメモ用紙に視線を落とした。出かけるのなら買ってきて、と出がけに母親から頼まれたものである。
「チョコレートだけだ」
ご丁寧に店の名前とチョコレートの種類まで書かれている。ついでに言えばその店の場所まで。火原が店を探して迷うであろうことを予想して。さすが母親と言うべきか。
「デパートの地下二階」
メモをジャンバーのポケットにしまい込むと、火原は目的地に向かって歩き出した。
もともと目的もなく出かけようとしていた。家にいるといろいろ考えすぎてしまうから。それでなくとも、今こうして歩いている時ですら、香穂子は今何をしているのか気になって気になってしょうがないというのに。
休みに入る前に、日曜日一緒に出かけようと誘った火原を、香穂子は困ったような笑顔で断ってきた。最近、どこかへ出かけるときは香穂子といつも一緒だったから、まさか断られるとは思っていなかっただけにショックも大きかった。
「用事があって………」
そうとだけしか言わなかった香穂子。もちろん、火原には自分を優先しろなんてことは言えないから、「わかった」と笑顔で応えた。でも内心では泣き顔だった。
土曜日や日曜日があるのがもどかしい。毎日香穂子に会いたい。少しでも話をしたい。会えない時は会いたい気持ちが募る。一緒にいればいるほど、もっと一緒にいたいと思う。
自分でも信じられないくらい、香穂子が好きで好きでしょうがない。
だから、たった一日でも会えないとなると、驚くぐらい落ち込む。
(何してるのかなー、香穂ちゃん………)
香穂子が今何をしているのか、それを想像するのはいつもは楽しいことだったけれど、今は楽しくなんかない。ただ気になるだけ。
きっと大事な用事なんだ。
でも、そんなことでは火原の気分は晴れない。
トランペットの練習をしようとも思ったけど、身が入らないのは予想に難くなかったので、ぶらぶら出かけることにしたのだ。
その結果が、母親のお遣いということになった。
「あ、甘い匂いがする」
エスカレーターで階を下ると、火原の鼻先を甘い匂いがかすめていく。
人の流れに乗って地下二階へ降りると、匂いがするほうへ足が向かう。
「っと、うわっ」
エスカレーターを下りている時から気がついてはいた。エスカレーターから流れる人がほとんど同じ方向へ向かっていて、それが女の子ばっかりであることに。
そして、今、火原の目の前には人だかり。女の子ばっかりがぎゅうぎゅうに押し合いへし合いしている。
甘い匂いの正体はチョコレート。
「バレンタインデー………」
天井からぶら下がっている文字を読む。
「あ、そっかぁ。明日はバレンタインデーだっけ」
忘れていたわけではないし、むしろ気になる行事だ。今年は特に。けれど、こうして目の当たりしてようやくはっきりと認識できた。
「すっごいな………」
圧倒されるほどの熱気。火原の足は売り場から少し離れたところで既に止まっていた。
はっきり言って、火原は場違いだった。男は火原一人と言って差し支えない。
突っ立っている火原の脇をすり抜けて、女の子たちが行き来している。
(あ、おれ邪魔かも!)
慌てて脇によけようとするも、思い直した。
母親に頼まれたチョコレート。
奥の壁際にその店の看板を見つけた。
「えーっと………」
つまり、この人混みをかき分けて行かなければならない、ということ。
人混みは苦手ではない。昼休みの購買部だって平気。
けれど、これはちょっと怯む。
一瞬、このまま引き返して母親には買えなかったと謝ろうかと思ったが、思い直した。頼まれごとはきちんと果たしたいし、毎日くたくたになって帰ってくる母親のお願い事は聞いてあげたかった。
「よし!」
気合いを入れて、火原はその人混みの中へ踏み込んだ。
「ちょっとごめんね! 通してね」
声を掛けながら、思うように進めないながらも少しずつ前進する。
しかし、その足が止まる。
視界の隅に入った後頭部。
これだけたくさんの女の子がいる中でも、間違うわけがない。
特別なんだから。
「香穂ちゃん………」
声は呟きにしかならない。
人混みのど真ん中で立ち止まっているのは迷惑になる。そんなことに思い至る余裕もない。
火原の視線の先にある姿。
背中に届く長い髪を今日はポニーテールにしている。香穂子が動く度にゆらゆら揺れるそれだけしか、人混みの中ではよく見えない。
それでもあれは香穂子に間違いない。
二人の間には五メートルほどの距離。香穂子はこちらに背中を向けたまま。一つのお店の前で店員にお金を渡している。
「用事って………そっか」
自然と頬が緩む。
香穂子が商品を受け取り、それを胸に抱え込んで方向転換する。
横顔が、見えた。
少し俯き加減なのは、大事に抱えている物に目を向けているから。嬉しそうに、愛しそうな目を。
頬が僅かに赤く染まっている。
そして口元に浮かんでいる笑み。
横顔がちゃんと見えたのは一瞬だったけれど、火原の脳裏に焼き付く。
香穂子の頬の赤みが伝染したように、火原も頬を染める。
「………………へへ……」
わき上がるのは心躍る気持ち。
沈んでいた気持ちが一気に浮上する。
あれは、きっと火原の為に買ってくれたチョコレート。それをあんなふうに嬉しそうに抱えてくれている香穂子の気持ち。
チョコレートを買うとき、火原のことを考えてくれたに違いない。それがわかるだけでもすごく嬉しいのに、あんな顔をして―――。
今すぐ抱きつきたいほど、嬉しい。
香穂子はとっくにチョコレート売り場を後にしているから、それはもう無理だけど。
(今見たこと、内緒にしよう)
火原は心の中でそう固く誓う。
ここで香穂子を見かけたこと。香穂子のあの表情を見たこと。
誰にも、香穂子にも言わないで、火原の胸の内だけにとどめておこう。
だって、勿体ないし、うまく表現できる自信もないから。どれだけ嬉しかったのか。
ようやく火原はその場から動き始めた。当初の予定通り、母親に頼まれたチョコレートを買うために。
そうしながらも、火原の頭の中は今見た香穂子の表情でいっぱいだ。
(あのね、香穂ちゃん)
近くにいない香穂子に心の中だけで語りかける。
(おれ、すっごく幸せだよ)
香穂子の気持ちを目の当たりにして。
こんなこと滅多にないと思う。
嬉しそうに笑う香穂子を見ることはあるけど、今日のはそれとは違う。
自分のことを好いていてくれるんだなと実感できた、そんな顔。
「早く、明日にならないかな」
きっと明日は朝から顔がにやっけぱなしに違いない。
だって今ですら笑みを浮かべずにいられることのほうが難しいんだから。
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