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『あっ、香穂ちゃん!? 助けて! おれもうダメ………って、あああっ!! ダメだよ! こらっ、ダメだってば! あっ』
電話を取った途端に飛び込んできた火原の声は、掛かってきたときと同じく唐突に途切れた。
掛けなおそうと思ったが、多分ちゃんと話すことは出来ないだろう。火原が窮地に陥っているのはわかったし、その原因が何であるかも今日の火原の予定を聞いていた香穂子には容易に予想がついたので、迷わず火原の家を目指すことにした。
家の中から火原の情けない叫び声が聞こえていたりして、香穂子はこみあげてくる笑いを抑えながら、インターホンを鳴らす。
『はいはいはい!』
慌てふためいた火原の声。
「日野です」
『あっ! 香穂ちゃん!! 来てくれたの!? ありがとう! すぐ開けるから待ってて!』
少し声が弾んだように聞こえた。来て良かった。
役に立つかどうかはともかく、一人より二人のほうが楽には違いない。
「お待たせー」
ドアが内側から勢い良く開かれ、それと共に火原の声が香穂子を迎える。
だが、香穂子を出迎えてくれたのは火原だけじゃなかった。
「ままー!」
大きな塊が火原の横を猛スピードですり抜け、香穂子の膝にタックルを仕掛けてきた。その勢いに負けて、香穂子は玄関先で尻餅をつく。
「香穂ちゃん!」
「ままっ!」
香穂子がひっくり返っても、塊は香穂子の膝にまわした腕を離そうとはしない。それどころか逆に力が込められた。
「ったぁ………」
腰をしたたか地面で打って思わず涙目になりながらぶつかってきた塊を見る。
必死にしがみついていたのは二歳くらいの男の子。顔は見えないが、髪の毛は明るい茶色でふわふわしている。身に着けているものは、紺色のTシャツにデニムのハーフパンツ、それだけだ。靴下も履いていない。もちろん裸足。なぜか足の裏が真っ黒だ。
「大丈夫!?」
とりあえず、香穂子にしがみついている男の子を離そうと考えた火原が、両脇から抱え上げようとする。
「………まま、ちがう」
小さな呟きがその口からこぼれると同時に、腕の力が緩んで、男の子は火原に抱え上げられた。
「そうだよ。ママじゃないよ」
ようやく顔が見えた。目がくりっと大きくて可愛い。香穂子が自分の母親じゃなかったことにそれほどまでショックだったのか、ぽかんとしている。
「ママはもう少ししないと帰ってこないよ。………香穂ちゃん、大丈夫?」
いつまでも尻餅をついたままの香穂子に、火原が心配げに声を掛ける。
「あっ、大丈夫です」
確かに痛かったが我慢できないほどではない。明日には痣が広がっているだろうけれど。
男の子を右腕だけで抱えた火原は、空いた左手を香穂子に差し出してくる。ありがたく、その手につかまり腰を上げる。
「ママは!?」
呆然としていた男の子が急に我に返って火原の腕の中で暴れだす。
「うわっ。ちょっと待って待って!」
火原の懇願は全く聞き入れてもらえず、香穂子から手を離した火原は慌てて両腕で抱えなおして、男の子が暴れるのを抑えようとする。
「ママはまだだよ。こっちは香穂ちゃん」
振り回される両手両足を器用に交わしながら、火原が香穂子を紹介する。
「かほちゃん?」
「そう、香穂ちゃん」
男の子の動きが止まり、改めて香穂子をその目が捉える。
「こんにちわ」
香穂子は笑顔でその視線に答えた。
「かずきくんのかのじょ?」
ストレートな質問に、香穂子も火原も咄嗟に反応できなかった。
「あ、う、うん、そうだよ」
頬を赤くしながらしどろもどろの返答をする火原に、香穂子は尚更照れてしまう。友人たちに彼氏です、彼女ですと紹介し、紹介されるのは、少々の照れはあるものの、これほどまでに恥ずかしいとは思わない。
「あかくなってる」
そういうことを指摘されるとまた恥ずかしい。
慌てて、香穂子は質問を切り返す。
「お名前、なんていうの?」
「ぼく?」
火原の腕の中ですっかり大人しくなった男の子は香穂子の質問に素直に答えてくれた。
「いくつ?」
不器用に作られたVの字が突きつけられる。
「もうすぐ三歳になるんだけどね。ともかく、中に入ろうよ。どうぞどうぞ」
「お邪魔します」
香穂子がドアを閉めると、火原は腕の中の男の子を開放した。
開放された男の子は、きゃーと奇声を上げて脱兎のごとく家の中へと駆け込んでいく。
「元気ですねぇ」
その背中を見送りながら、スニーカーを脱ぐ。
「うん。元気だよ。元気元気。おれも相当元気だと思ってたけど、かなわないや」
その言葉に疲れが滲んでいる。
良く見れば、火原の着ているTシャツの首は伸びてよれよれになっていたし、首回りだけに留まらず、シャツ全体が型崩れを起こしている。髪の毛もどことなくボサボサだ。
「ところで、火原先輩お一人なんですか?」
火原と男の子以外の家人の気配が全くない。男の子は火原の従姉の子供であることは昨日のうちに聞いていた。近くに用事があるらしく、その間預かって欲しいということだったと聞いていたが、それにしても火原一人とはどういうことだろう。
「みんな出かけちゃった。母親は仕事だけど、兄貴は用事があるとかで朝から出かけたし。父親は従姉夫婦出かけることになっちゃったんだ」
火原に先導されてリビングへ向かう。
リビングの惨状は予想以上だった。家具はともかくとしても、テーブルの上に置かれていたもの、サイドボードの上にあったはずのもの、そのほとんどが床に落下していて、足の踏み場が限られている。その上に、持参してきたのであろう、ロボットのおもちゃや絵本も広げられて散乱していた。このリビングでずっと遊んでいたのだろう。
だが、そこに男の子はいなかった。
「あ、あれ?」
戸惑う火原と香穂子の頭上でバタバタバタと足音が響く。
「二階! いつの間に!!」
火原はその音の発生源を捕らえるべくリビングを飛び出していった。
追うか追うまいかしばし悩んだ香穂子は、リビングで待つことを選んだ。火原の家には何度か来たことがあるが、勝手知ったる何とやら、というわけにもいかない。
ともかく、この惨状を少しでもマシにしようと、散らかっているものを片付け始める。片付けるといっても、それこそ勝手がわからないので、隅に寄せたり、テーブルの上に並べてみたりといった程度だ。
火原が上っていったことで、二階から響く足音が激しさを増した。かけっこかもしくは鬼ごっこが始まっているらしい。火原としては、捕まえたいのだろうが、それを遊びだと思って根気良く逃げ回っているらしい。
火原は大変だろうが、それはそれで微笑ましい。
(火原先輩もあんなふうだったんじゃないかなー)
家中を駆けずり回り、それだけじゃ飽き足らず外でも目いっぱい駆け回っていたのだろう。そういう様子が簡単に思い浮かぶ。
甲高い笑い声が、この状況を楽しんでいるというのを余すことなく伝えていて、香穂子はまた笑みを漏らしていた。気がつけば、その笑い声に火原のものが混じっていた。
火原と男の子が戻ってきたのはそれからゆうに三十分が過ぎてからだった。
「はい、冷たい飲み物どうぞ。勝手に冷蔵庫開けちゃったんですけど」
香穂子は火原と男の子にそれぞれの大きさのコップでオレンジジュースを差し出す。
「あっ、ありがと!」
火原が喜んで香穂子の手からコップを受けとるのと同じ顔をして、男の子もコップを受けとろうと手を伸ばす。火原に渡してから香穂子は身をかがめて、男の子がきちんとコップを持てるように手を添える。こくこくと喉を鳴らしてオレンジジュースが見る間に無くなっていく。
「ふはー! 美味しかった~! もう一杯飲もうっと」
火原は飲み干したコップを片手に冷蔵庫を全開にする。
「あっ、ぼくもぼくも」
まだコップに中身が残っているのに、火原と同じ事をしようとしている。
香穂子はとうとう声にだして笑ってしまった。
火原と男の子がきょとんと香穂子を見つめる。
「あっ。ごめんなさい!」
口だけではそう言うが、香穂子の笑いはしばらく収まらなかった。 ある休日の昼下がり───。
「寝ちゃった………」
男の子が持参していた絵本を読んでいる途中だった。香穂子の膝の上に重みが加わったのでそちらを見ると、香穂子に寄っかかって男の子が眠っていた。
「可愛い」
さっき走った汗で額に張り付いている前髪を払ってやる。
「疲れちゃったのかな」
「そうですね」
火原が香穂子の横にしゃがんで、男の子の寝顔を覗き込む。
「すんごい年が離れてるけど、弟ってこんな感じなのかなー」
「弟、欲しかったですか?」
「う~ん。今まではそんなふうに思ったことなかったけど、いいなぁって思った」
「でも、今からなら火原先輩、親子のほうが早いですよ」
「えっ!?」
「先輩の子どもの時ってこんな感じなのかなって思ってました、私。そうしたら、きっと先輩の子どももこんな感じになるのかなって、すごく簡単に想像できちゃったんですよ。こんなふうに子どもと一緒に遊び回るんだろうなって」
香穂子はそうっと膝で眠る男の子の頭を撫でる。
しばらくその動作を繰り返していたが、横にいる火原が黙り込んでしまったのを怪訝に思って、火原のほうへ顔を向ける。
香穂子の視線を受けた火原の顔は真っ赤だった。それを自分でも解っていて恥ずかしかったのだろう。ばっと顔を横に背けた。
「火原先輩?」
「な、なんでもない!」
「そうですか………?」
なんでもないというふうには見えないが。
「か、香穂ちゃんも、いいお母さんになるよ!」
「え?」
「そういうのとか、すごく良い感じだよ。優しいお母さんって感じで」
背けていた顔を戻しながら、火原が言う。顔の赤さは少し落ち着いていた。
その分が移動してきたかのように、香穂子がぽっと顔を赤くする。
「そんなこと、ないですよ!」
「そんなことあるよ。だってこんなに懐かれてるじゃない。それに香穂ちゃんがお母さんだったら、毎日幸せだろうって思うよ。きっと家に帰るのが楽しみになると思うんだ」
「ちょっ………先輩!」
とんでもないことを言い始めた火原を留めようと香穂子は声を挟むが、火原は聞き入れていない。
「河原とかでキャッチボールとか転げ回ったりとかしてどろんこになって帰ったら、香穂ちゃんが玄関で迎えてくれるんだ。どろんこになったおれたちを見て、ちょっとだけ怒ってお風呂に連れて行かれるんだ。お風呂からあがったら、あったかい料理が待ってたりしてさ。いいなぁ、そういうの」
火原の口からやたらに具体的な想像が出てくるから、香穂子は益々顔を赤くする。火原の言葉を止めることはもう諦めていた。
香穂子が黙ってしまったことにようやく気がついたのだろう。火原が我に返った。
「って………ごめん! おれ、何言ってるんだろう! ええっと今のナシ!!」
そうは言われても一度聴いてしまったことを、しかもこんな内容の事を忘れてしまうのは難しい。
それでも香穂子はこれ以上なく顔を赤くしながらこくりと頷いた。
「うう~ん………」
くぐもった声が、香穂子の膝の上から聞こえた。どうやら、先ほど火原が上げた声が大きかったらしい。
そのまま起きてしまう気配はなく、二人はほっと顔を合わせるとくすっと照れ笑いをお互いに見せた。
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