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うららかな午後に

 首筋を撫でていった柔らかな風に、香穂子の意識は眠りの底から浮上する。しかしながらそれはまだ目覚めとは言えない。まどろみはそのまましばらく続く。
 春の心地良い空気は緩やかな眠りを誘う。いつまでもその眠りに身を委ねていたいとそう思わせる。
 香穂子は音楽準備室の大きな机の上に顔を横にして伏していた。その腕の下には眠りにつくまで眺めていたモーツァルトの伝記。この部屋にあった本を借りて読んでいたところだった。
 面白くないわけではなかったが、眠りのほうが勝った。
(続き………読まなきゃ………)
 そう思いはするものの、瞼が持ち上がらない。
 開かれた窓からの微風は優しく香穂子を掠めていく―――。


 次に香穂子が気づいたのは、室内の空気が動いたから。
 誰かが入ってこようとしていた。
 その足音が誰のものであるか、まだしゃきっと目覚めていなくとも香穂子にはすぐに解った。
「ごめん、起こしちゃったかな」
 香穂子が机の上から顔を上げると、背後からそう声を掛けられる。
「いいえ。もう起きなきゃって思ってたから」
 背後を振り返るとそこには果たして王崎が立っていた。
 香穂子の口元には自然と笑みが浮かぶ。王崎に会えたということが、とても嬉しくて心を軽くする。会えるだけで嬉しいと思うことを、香穂子は王崎と出逢って知った。
 しかも、今は香穂子にとって予定外の遭遇。約束をしていたわけでもなかったから、嬉しさはひとしおだ。
 王崎は準備室のドアを閉めると、香穂子の横に立つ。
「ああ………モーツァルトの伝記を読んでいたんだ」
「今、モーツァルトってあちこちで話題になってるから、どんな人だったんだろうって気になって。でも読み始めたら、外の風が気持ち良くって………」
 言葉尻を濁したが、王崎には最後まできちんと伝わったようだ。
「うん。わかるよ、その気持ち」
 照れ笑いになった香穂子に、王崎は微笑んで返す。
「風が気持ちいいよね。天気もいいし。こんな日は青空の下でゆったりと過ごしたくなるね」
「はい」
 しばらく二人黙ったまま、窓の外へと目を向ける。
 何も話さなくても、気まずくない。静かで穏やかな空気が二人の間にある。それはとても安心できるもの。心地が良くて、いつまでもこうしていたいと思わせてくれるもの。
 それはまるで、部屋に流れ込んでくる春の柔らかな風そのもの。
 隣に王崎がいる。話をしたいと思う。あまりゆっくりと一緒にいられる時間がないから、会うと話したいことがいっぱいだ。
 けれども、言葉を発することで今のこの心地よい空気が少し変わってしまうのはもったいない。王崎との会話で場の雰囲気が壊れてしまうというわけじゃない。王崎と話をすることも香穂子は好きだ。
 しかし、それよりも今はまだ言葉を交わさずこうしていたいと思う。
 王崎も何も言わない。
 香穂子と同じように思っていてくれるのだろうか。
 そうしたら、これほど嬉しいことは無い。
 同じ場所で同じ事を思っているのなら。
 しばらくは、このままで───。

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