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暖かい風がふわりと髪を持ち上げる。乱れてしまわないように、片手で押さえている香穂子の元へ王崎は駆け寄った。
「ごめん。待たせちゃったね」
その声に、勢い良く香穂子は振り返った。少しびっくりした顔をしているのは、王崎がこの方向から現れるとは思っていなかったからだろう。香穂子が今まで向いていたのは駅のほうだったからだ。いつもならそうだが、今日はここへ来る前に急遽予定が入って、それを片付けてからやってきたために、いつもとは違う方向から現れることになってしまった。
香穂子がびっくりしていたのはほんの僅かのことで、すぐに笑顔になって体ごと王崎に向き直る。
「いいえ」
約束の午後一時までにはあと五分あったが、それよりも前に香穂子は来ていたわけだから、王崎が待たせたことに変わりない。だが、香穂子は笑顔でそれを否定する。それはいつものこと。
「お昼ご飯、済ませました?」
王崎の顔を下から覗き込むようにして見ながら、香穂子が訊く。
こういう質問をしてくるのは、王崎が昼食もまだ取っていないことを、香穂子が素早く見抜いているときだ。
見抜かれているのにごまかすことは出来ない。以前はごまかしが効いていたのだが、一度見破られてからは出来なくなってしまったから。
あのときの香穂子の剣幕はすごかった。今でも苦笑がこぼれる。
「実はまだなんだ。どこかで軽く食べてもいいかな?」
「はい」
香穂子は満足げに頷いた。
気がつけば桜の花は全て散っていて、その代わりに瑞々しい葉が見る人を和ませる。
一緒に桜の花を見ようと誘ったのは王崎のほうだったのに、その約束は果たされなかった。埋め合わせのデートが今日。これから映画を観ることになっている。午後一番最初の上映に間に合うよう待ち合わせたにも関わらず、こうして王崎が食事を取ることになったため、一つ時間を遅らせることになった。映画を観ることしか予定していなかったが、その予定ですら狂わせていることは、王崎にとって心苦しいものである。香穂子に申し訳ないと思う。
当の香穂子はそんなことをちっとも気にしていない。始終にこやかにここ数日の出来事をあれやこれやと話してくれる。既に昼食を済ませていた香穂子はケーキセットを頼んでいたのだが、そのケーキを口に運ぶ間もないくらいに。
デートの約束をキャンセルすることもしばしばで、もっと不満そうなところを見せていてもおかしくないのに、香穂子はいつだって笑っている。それが王崎を更に申し訳ない気持ちにさせるのだ。
口にしないだけで、不満もいっぱいあるだろう。
言ってくれていいのに。
「どうしました?」
話すのを中断して、香穂子が少し首を傾げる。
「いい子だな、って思ってた」
香穂子が絶句しているのを見て、自然と笑みが浮かぶ。
本当にいい子だ。心からそう思う。
「い、いきなり何を言うんですか!」
頬を僅かに赤らめながら、香穂子が抗議する。それも微笑ましい。
「言ったのはいきなりだったかもしれないけど、いつもそう思ってるよ。俺と一緒にいてくれるのがきみで良かったって」
香穂子の顔がどんどん赤くなる。
それとともに王崎の胸のうちにある、香穂子への想いもどんどん膨らむ。
自分の都合で香穂子を振り回している。香穂子に申し訳ないと思う。だけど、愛しくてもう香穂子から離れることは出来ない。離れたくない。
香穂子は赤くなった顔を王崎から背けるように下を向き、手をつけていなかったケーキを一気に食べ尽くす。そのまま紅茶まで飲み干した。
「もう少しゆっくりしていく? 上映時間まではまだあるけど」
「いえ! もう出ましょう!」
さっさと立ち上がった香穂子の後を追って、王崎も席を立つ。
「提案があります」
店を出た香穂子が軽く手を挙げる。
「何かな?」
「映画をやめて、公園に行きませんか?」
こんな直前になって予定を変更する香穂子も珍しい。王崎は驚きを隠せなかった。
「公園に?」
「はい」
しかし、香穂子がそう言うのなら、異論はなかった。見たい映画があると言ったのは香穂子のほうだったのだ。
「映画は観なくていいの?」
「まだ、上映期間はありますからまた今度にしましょう。今日はなんだか公園でのんびりしたい気分になりました」
よく行く近所の公園ではなく、山の上にある公園を訪れた。山の上といってもそれほど高い山ではなく、どちらかというと小高い丘という言い方が似合うくらいの標高しかない。それでも、徒歩だとハイキングになっていたところだ。
山の上は空気が違っていた。吸い込むとすうっとした冷たさが肺の中に広がる。
アスレチック施設があるこの公園では、親子連れが目立っていた。子供たちのはしゃぐ声がこだましていてにぎやかだ。
少しその場所から離れて、天然の芝生が広がる一角に二人は並んで転がった。賑やかな声が遠くに聞こえて静けさのほうが大きくなる。仰向けになると視界に飛び込んでくる空が鮮やかな青色をしていることに気がつく。その青色を横切る白い雲が眩しい。
「気持ちいいね」
「はい」
しばらく芝生の上をそよぐ風に撫でられたまま、お互い黙って空を仰いでいた。
心が洗われるようだ。
使い古された言葉だが、今、その意味を体感していた。
春の陽光は暖かく降り注ぎ、それを僅かに冷たさを含んだ微風が掬う。その全てが王崎に優しく触れていく。なんだか、体が軽くなる気がする。
もっとその優しさを感じようと、王崎は瞼を閉じた。
隣から寝息が聞こえてきて、香穂子はそっと身体を起こした。
(やっぱり映画にしなくて良かった)
待ち合わせてすぐに顔を覗き込んだときに、眼鏡越しに充血した目に気がついた。寝不足が続いているんだろう。毎日忙しくしている人だから。本人は疲れている顔とか辛い顔を見せたりしないけど。
(疲れてるって、自分でも気付いていないんだろうし)
質の悪いことに。
「きついときはちゃんときついって言うよ」
前に王崎からそう聞いたことがあるが、怪しいものだ。
もっとちゃんと言って欲しい。
遠慮なんてして欲しくない。
疲れているから休みたいって言ってくれていい。そうしたら、今日はお休みしましょうってちゃんと言うから。
その分会えなくなるのは寂しいけど、無理している姿を見るのは辛いから。
そうまでして会ってくれることは、嬉しいけれど。
言ってくれないから。
(私、まだただの年下の彼女なのかな。頼りにしてくれないのかな)
それは寂しい。
守ってくれるのは嬉しい。だけど、守られるばかりじゃ嫌だ。
頼られるのが嬉しいことだってある。
王崎の為だったら、どんなに大変だって頑張るのに。
ただ、頼ってくれるのを待っていてはいつまで経っても変わらない。
だから、今日は初めて実行してみた。
上手くいったのがすごく嬉しい。
香穂子の傍らで王崎は穏やかな寝顔を見せている。自然に笑みが浮かんだ。
頼ってくださいとは言えない。そう言ったところで頼ってくれないから。だから、それと気付かれないように、王崎を助けようと思う。頼ってくれないのなら、自分から助けてあげればいい。それだけのことだ。
今日はその第一歩。
そして、いつかは頼って貰えるような女になる。それが香穂子の目標。
(………頑張るから)
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