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首筋を撫でていった柔らかな風に、香穂子の意識は眠りの底から浮上する。しかしながらそれはまだ目覚めとは言えない。まどろみはそのまましばらく続く。
春の心地良い空気は緩やかな眠りを誘う。いつまでもその眠りに身を委ねていたいとそう思わせる。
香穂子は音楽準備室の大きな机の上に顔を横にして伏していた。その腕の下には眠りにつくまで眺めていたモーツァルトの伝記。この部屋にあった本を借りて読んでいたところだった。
面白くないわけではなかったが、眠りのほうが勝った。
(続き………読まなきゃ………)
そう思いはするものの、瞼が持ち上がらない。
開かれた窓からの微風は優しく香穂子を掠めていく―――。
次に香穂子が気づいたのは、室内の空気が動いたから。
誰かが入ってこようとしていた。
その足音が誰のものであるか、まだしゃきっと目覚めていなくとも香穂子にはすぐに解った。
金澤の歩く音。それはサンダルの音。だからというわけじゃないが、校内で金澤の足音を聞き分けるのは難しいことじゃない。
香穂子は室内に踏み込んできた金澤の足音を聞きながらも、そのまま目を閉じ続けていた。いわゆる空寝だ。
「………寝てるのか」
金澤が口の中で呟いた言葉も、静かな室内ではきちんと香穂子に届く。
室内を移動し始めた。眠っている香穂子に対しての気遣いはあまりないのだろうか。足音を忍ばせるでも、衣擦れの音を抑えるでもなく、普通に。
香穂子が伏せている室内中央の机を迂回して、金澤は窓際に立つ。そのまま静かになるかと思ったら、白衣のポケットやズボンのポケットを探り始めた。目的のものはすぐに見つかったらしい。
ぺりぺりと引き剥がす音。それは煙草のパッケージを開ける音。
だが、その後ライターをつける音は聞こえなかった。開けたのに吸わないのだろうか。タバコの箱を軽く叩くような音が聞こえてくる。指か、ライターの尻で叩いているのだろう。そうしているところを良く見る。煙草を吸いたいけど吸えない時にやる癖だ。
そっと細目を開けてみるが、視界はあまり開けない。窓のあたりまでは見えない。だが、もっと良く見たいと思って、頭を動かしたら起きているのがわかってしまう。
香穂子は諦めてまた瞼を閉じた。
閉じて良かった。
外から差し込む明るさが遮られた。金澤が窓の前を横切ったのだ。
金澤は香穂子の横を通り抜け、そして背後へ回る。
そのまま出て行ってしまうのかと焦って、香穂子は起きようかどうしようかと迷う。だが、その迷いに答えが出るよりも先に、金澤は行動してしまった。
香穂子の背中に熱の籠もった空気が乗っかかってくる。頭の両脇にはぎしっと机を軋ませながら手が付けられる。
(ちょっ………!)
目を開けなくても解る。今、香穂子は金澤に背後から覆われていた。もちろん直に触れられているわけではない。それでも熱が伝わるほどには近い。
顔を横に向けて伏せていた。その横顔に視線を感じる。
そして―――。
香穂子の横顔に陰が落ちる。それはどんどん近くなる。
(うわっ)
ばちっと香穂子は目を開けた。その勢いで頭を、それから身体を起こす。
かなりの勢いだったのに、金澤にぶつかることはなかった。香穂子がぶつかってくるのを軽く避けた。それは、香穂子の行動を予測していたよう。
「おはよう」
しれっとして言うと、金澤は再び窓の傍に立った。
「おはよう………ございます」
熱くなった頬を抑えながら、上目遣いに金澤を見る。それは殆ど睨みつけているのと同義だ。
「………からかいましたね」
「寝ているほうが悪い」
「起きてるの、わかってたんでしょう」
「へぇ。起きてたのか」
金澤が口元を歪めた。
「語るに落ちたな」
香穂子は口を尖らせる。
「次からは、無防備に寝顔なんて晒すなよ」
金澤は香穂子の顔から視線を逸らして、そう言った。
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