[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「失礼しまーす」
音楽準備室のドアを慣れた手で開ける。
だが、香穂子を迎えたのは静寂だけだった。
「あれ?」
誰の姿もなかった。いつもなら金澤がいるのに。
「失礼しますよー」
遠慮がちに言って、室内に入った。
窓とドア以外の壁は、音楽関係の図書で埋まっている。人によっては圧迫感を感じるだろうが、香穂子にとっては居心地がいい場所だ。
部屋の中央にはテーブルが一つと椅子が六脚。教師と生徒が話をするときには、大概にしてこのテーブルを挟んでいる。
窓に面して、教員用の机が一つ据えられている。ここは金澤一人の場所ではないのだが、雑多に積み上げられている本や資料の殆どは金澤のものである。職員室に居着かない代わりに、ここへ入り浸っている結果だ。
机の前にある椅子の背には金澤愛用の白衣が掛けられていた。
「出かけてるんだ」
テーブルを迂回して、香穂子は教員用の机の前に立つ。
白衣を手に取った。
置かれて暫く経つのだろう。白衣にぬくもりはなかった。
ちょっとした、悪戯心のようなものだった。出来心と言ってもいい。
香穂子は白衣に袖を通していた。
金澤の身体にちょうど良い白衣は、もちろん香穂子にはぶかぶかだ。肩の線は腕の半ばまで落ちているから、指先から袖が余って垂れている。ふくらはぎも白衣の裾に隠れてしまう。
「大きいなぁ」
上半身をひねって自分の後ろを見てみたが、自分の足下も見えなかった。
なんだか可笑しくなってきて、一人くすくすと笑う。
音楽準備室のドアが開いたのはそんな時だった。
「何してるんだ、お前さん」
呆れ声の主は金澤その人だった。
「あ」
変なところを見られた。恥ずかしくて、顔を赤くする。
後ろ手にドアを閉めながら、金澤は香穂子のほうへ歩み寄ってくる。
「あ、えっと」
慌てて白衣を脱ぐ。
「暖めておきました!」
そう言って、脱いだばかりの白衣を金澤に押しつけた。
「は?」
「それじゃあ、失礼しました!!」
金澤の顔をまともに見ることも出来ずに、香穂子は金澤の横をすり抜けてそそくさと音楽準備室を後にした。
「何だったんだ………」
残された金澤はぽかんと香穂子が閉めていったドアを見つめる。
時折、香穂子は理解不能な行動を取る。全てを理解し得るとは思ってはいないが、理解不能な香穂子の講堂は金澤を悩ませる。
今だってそうだ。
押しつけられた白衣に視線を落とす。
「暖めておいたって………なんだそりゃ」
そう聞いたからというわけではないだろうが、確かにその白衣はぬくもりを残していた。
香穂子のぬくもりだ。
「これをどうしろと………」
ため息が零れるのを禁じ得なかった。
なぜなら。
このぬくもりが残る白衣を気にせずに着られるほど、香穂子のことを意識していないわけではないからだ―――。
INDEX |