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見つめる先に

「難儀なこった」
 星奏学院学内コンクールの参加者が発表された翌日のこと。
 金澤は新たに追加された参加者の名前が載った用紙を眺めてから、手の中からそれを放り出す。滑るように机の上に着地した用紙は音もなく鉛筆立てに引っかかって止まった。
 日野香穂子。
 それが新たなコンクール参加者。
 驚きを通り越して呆れたことに普通科の生徒だった。
 知らない生徒ではない。金澤自身、普通科の音楽の授業を受け持っているので接することもある。だが、これといった特徴はない。可もなく不可もなし。ところが驚くべき能力を持っていたというわけだ。あまり嬉しいとは思えない能力だが。
 コンクールの参加条件はたった一つ。たった一つであるが、この条件を満たす人間は指折り数える程度しかいない。実際に五人しかいなかったのである。そして運悪く―――自らもその経験をしたことがある身としては運悪くとしか思えない―――また一人。
(姿を見られたからって手当たり次第に参加を強要するってのもどうなんだ)
 白衣のポケットに手を突っ込んで、金澤は音楽室準備室を出る。
 そこで、ばったりと出くわしてしまった。情けない顔をして、天羽と並んで立っている香穂子に。
「おー、今回は災難だったなぁ」
 真っ先にそう声を掛けたら、香穂子は更に情けない顔になった。半ば泣きそうだ。
「金やん! そんな言い方ないよ!」
 天羽の鋭い声が金澤を窘める。
「いや、災難は災難だろ。自分の意志で決めたわけじゃないんだからさ」
「んもー! 日野ちゃんを余計心配がらせるようなことを言わないでって言ってるのに!」
「そりゃあ悪かった」
 そう言ったが、自分でも全く悪びれているようには聞こえなかった。
 取りなすように、別の言葉を香穂子にかける。
「何なら辞退してもいいんだぞ」
 それは思ってもいなかった言葉のようで、香穂子がきょとんと金澤を見上げた。
「まぁ、いろいろうるさくいう連中もいるだろうが、お前さん、全くの素人なんだろ。無理してまで出ることもないさ」
 香穂子の視線が少し揺れた。そして、金澤から視線が逸れて、驚いた表情になる。
 どうやら、ここに出現したらしい。多分、わあわあ喚いているのだろう。容易に想像がつく。
「でも………」
「少し考えたらいいさ。出来そうだと思うならやればいい。無理だと思うなら止めればいい。それだけのこった」
 香穂子は金澤と、中空の一点を見比べて、苦笑した。
 金澤としてはコンクールの担当教師に選ばれたことによって既に面倒極まりないことになっているので、これ以上面倒なことがなければいいと思うだけだ。素人の香穂子が参加することで煩わしいことが増えるのなら面倒だが、自分の責任において頑張るというのならそれはそれで構わない。
(さて、どうするのかね)
 頼りない表情の香穂子と金澤に腹を立てている様子の天羽をその場に残して金澤はその場を離れた。


 金澤が香穂子の選択を知るのは、その翌日のこと。
 たどたどしく弦が弾き出す音が、屋上にいた金澤の耳に届いた。どうやら音源は練習室の一つのようだ。
(………初めて弾くにしては音が出ている方だけどな………)
 かといって聞くに堪えうる、というまでにはほど遠い。
 屋上を取り囲む鉄柵に寄りかかって、見下ろした。
 無論、そこから練習室の中は見えない。
(まぁ、頑張るといい)
 身体を反転させ今度は背中を鉄柵に預けると、ポケットを探って煙草を取り出した。一本を口に咥えると火を付けて空を仰ぐ。夕方が迫り、白い雲も赤く染まり始めていた。そこに金澤が立ち上らせている紫煙が吸い込まれていく。
 香穂子の拙い音はまだ聞こえている。まだ音を出すのが精一杯というところだろう。
 それは下校の時間ギリギリまで続いた。
「初っぱなから飛ばしすぎだな」
 屋上から出て、階段を下る途中で香穂子と遭遇した。
「参加するのか」
「はい」
 香穂子は照れ笑いを浮かべる。その手には鞄とヴァイオリンケース。
「じゃあ、頑張れ」
 やっぱりあんまり本心が籠もっているとは思えない口調だったが、香穂子は「はい!」と朗らかに頷いた。
 香穂子が何を思って参加することを決めたのかはわからない。大方、やつらの強い意志に押されてしまっただけなのではないかと思うが。やつらは強引すぎるきらいがあるのだ。
(お人好し、だな)
 金澤に別れを告げて階段を駆け下りていく香穂子の背中を見送りながら、そんなことをぽつりと思う。


 更に翌日。
「お、日野―――」
 頑張ってるかー? と、声を掛けようとしたのだが、それは果たされないままとなった。香穂子が全力疾走していて、あっという間に金澤の前を通り過ぎてしまったからだ。正門前にたむろしている他の生徒達も香穂子の走りっぷりに呆気を取られてその姿を追っている。
「何してんだ、ありゃあ」
 言葉の行き先を失った金澤は、思わずそう呟いていた。
 香穂子は正門前をぐるぐる走っている。それを見ているうちに何かを追いかけているのではないかということに気がついた。
「はぁっ、はぁっ………」
 息を切らした香穂子がちょうど金澤の前で膝に手をついて、とうとう走るのを止める。「大丈夫か?」
「だい………じょ、ぶ、です」
 とてもそうとは思えない返事だ。
 何を追いかけているのか、それは聞かなくてもわかった。派手に振り回されているようだ。
(大丈夫かねぇ………)
 そして、金澤の心配はその後しばらく尽きることはなかった。
 以降、やたらと全力疾走をする香穂子を見かけるようになったからである。練習は出来ているのかと心配になるほどに。
 他の参加者に比べると力量も足りていないし、提供されているヴァイオリンが特別なものだとしても、満足のいく結果になるとは思えない。厳しいが、それは事実だ。だからこそ、練習を重ねて置く必要があるというのに、金澤が見かける度に香穂子は走り回っているのである。あれでは脚力を付けているだけとしか思えない。
 だから、ベンチに座っている香穂子を見つけたときにはホッとしたものだ。
 質問攻めの月森と志水から逃げるようにして屋上に上がって来たところだった。
 香穂子は真剣に楽譜と睨み合っていた。ふんふんと鼻歌が聞こえてくる。ぺたぺたとサンダルの音を鳴らして、香穂子に近づいた。
「今頃、譜読みか?」
 金澤の足音にも気づかないほど集中していたらしい。突然現れた金澤にびっくりしている。
「あ、いえ………どうしても、うまくいかないところがあって」
 香穂子の手にある楽譜は角が折れたりしてよれよれになっている。
 それをひょいっと取り上げた。
「貪欲なんだな。結構結構」
「先生ー」
 困った声に金澤は香穂子の横に置かれたヴァイオリンを指し示す。
「ちょっと弾いてみろ」
「ええ?」
「何だ。明日はセレクションだってのに、他人様に聞かせるようなものになっていないのか?」
「そんな自信、あるわけないですよ」
 香穂子はため息と共に弱気な言葉を吐き出す。
「いいから弾いてみろ。聞いてやる」
 渋々ヴァイオリンを構えた香穂子は、そらんじている曲を奏で始める。
 最初に聞いたあの音よりも幾分マシにはなっている。聞くに堪えないほどではない。これだけの短い時間でそこまで辿り着いたのなら、大したものだろう。もちろん、他の参加者と比べるとそこには歴然とした差がある。幾分マシになっただけだ。
(しかし………)
 何故だろう。
 悪くは、ない。
 どこかどう、と口で説明できないのがもどかしい。
 一通り弾き終えた香穂子は大きく息を吐き出して、ヴァイオリンを下ろした。金澤はパンパンパン、と何回か手のひらをたたき合わせた。
「素人にしちゃ頑張ってるじゃないか」
「そうですか?」
 香穂子は素直に喜ぶ顔を見せない。今のは誉められたのか皮肉られたのかわからなかったからだろう。言った金澤だってどっちなのかわからない。
 だた、頑張っているのは確かだ。
「とりあえず、曲にはなっているわけだし。あとは当たって砕けるだけだな」
「………………砕けたくはないです」
 金澤はその言葉に少しだけ目を瞠る。
「負けん気が強いんだな、実は」
 コンクールへの参加が決まったときの香穂子はとても頼りない表情をしていたから、こういう発言をするとは思えなかった。練習を重ねているのもただ断れなくなってしまったからだと思っていたのだが。
「そんなことないですよ」
 香穂子は、また苦笑を浮かべていた。


 第一セレクション。
 香穂子の成績は案の定、最下位。評価も散々だった。無理もない。それでも健闘したと金澤は思う。素人があれだけの音を出せるようになったというのがどれだけすごいことかわかっているのだろうか。
「お疲れさん」
 控え室から出てきた香穂子を金澤は迎えた。最後まで残っている香穂子が出てくるのを待っていたからだ。早いところここを出て貰わなければいつまでも施錠できないし、金澤も帰ることが出来ない。
「あ、お疲れ様でした」
 肩を落として出てきた香穂子は金澤の姿を見つけて、慌てて背筋を伸ばす。目の縁が心なしか赤く見える。
「ほら、早く帰れー」
「………あ、はい」
 並んで講堂を出ると、傾いた赤い太陽が二人を照らし出す。
「今日のお前さんの演奏は上手いとは言えなかった。それはお前さんもわかってるな」
「………………はい」
 消え入りそうな香穂子の声。
「だが、悪くなかった」
「え?」
「いい演奏ってのはどんなのものだと思う?」
 香穂子に質問しておきながら、金澤は先を続ける。
「月森は確かに上手い。表現力も技術力も申し分ない。セレクション一位も当たり前。誰もがそう思っている。センスもあるしな。けど、それに負けない演奏だって出来る。表現力だって技術力だってそれは練習を重ねれば出来るようになる。お前さんにだって出来るようになるさ。あとはそれを越えるものを出していけばいい。お前さんはそれを持っている」
「先生………」
「それが何なのかは自分で見つけろよ。そこまで俺は親切じゃないし、お前さんだけ贔屓するわけにもいかんだろ。みんな平等、これ大事」
 正門前まで来て、金澤は足を止めた。
「じゃあな。今日はゆっくり休むように。反省するのも大事だが、体調を管理するほうがもっと大事だからな。特に、慣れないことをしたんだからさ。―――うん、俺今いいこと言った」
 香穂子が少しだけ笑った。
「わかりました。それじゃあ、さようなら」
「気ぃつけて帰れよ」
「はい」
 金澤に背を向けて香穂子が歩き出す。その背を見送っていると、途中にある妖精像のところで香穂子が足を止めた。妖精像に向かって何事か話しかけている。
 いや。それは妖精像に向かってではなく、そのものに向かって、だ。
 どんな言葉を掛けられたのか、金澤に聞こえることはないが、ともかく香穂子が笑うことが出来るような気持ちのいい言葉だったのは間違いない。香穂子は軽く手を振って、その場を離れて今度こそ正門から出ていった。


 また香穂子が走り回る日々が続いた。最近では、走る足音が聞こえると真っ先に香穂子を思い出すほどで、その八割が香穂子だった。
 今もまた、音楽室に向かって走ってくる足音が聞こえてきた。今まさに音楽室に入ろうとしていた金澤は振り返って、香穂子の姿を見つける。
 金澤に気がついた香穂子は急ブレーキをかけて、金澤の前で立ち止まる。
「………頑張ってるなぁ」
 しみじみとそんな言葉が自然と漏れてくる。
「はいっ」
 香穂子は元気よく受け応える。
 音楽室のドアを開けて、先に入るよう香穂子を促してからその後に続く。
 音楽室では他にも音楽科の生徒が練習している。香穂子がここで練習しているのを金澤は今までに見たことがない。走り回っている以外には、屋上か練習室でしか香穂子を見ることが出来なかったのに。
「今日はここで練習か?」
「あ、はい………」
 香穂子は決まり悪そうに頷く。
 多分、ここへは練習しに来たのではなく、やつらを追いかけるために来ただけなのだろう。
「日野」
 キョロキョロと左右に視線を走らせている香穂子を呼んだ。呼んでしまって我に返る。
 今のは完璧に無意識だった。
「はい」
 香穂子は金澤に向き直る。
 ただ呼んだだけだとは、とてもじゃないが言えない。
「頑張ってるな」
 咄嗟に出てきた言葉はそんなもの。さっきも言ったばかりだ。同じ事を繰り返すだけなんて情けない。他に言うことはなかったのか。
「はい」
 だが、香穂子は大きく頷いた。笑顔付きで。
 今までに見ていた笑みは苦笑だったのに、今の笑みは違う。何故だろうか。それを眩しく感じる。
「お前さん、殆ど無理矢理に参加することになったのに、何でそんなに頑張ってるんだ?」
 勝手に参加を決められて、ここまでする理由が香穂子にはないはずなのに。もっと憤ってもいいはずなのに。
「言われてみれば、そうですね」
 今まで気がついていなかったのか。
「だけど、もう後には引けませんし。何より、ちょっと楽しくなってきたから。まだ、全然思うように弾けないんだけど、今まで知らないっていうだけで近よりもしなかった音楽の世界に触れてみたら、案外楽しくて。勿体ないことをしていたなぁって思っています。………えーっと、ある人が、音楽は楽しいものだって知って欲しいって何度も言っているのを聞いていたら、本当にそうだなぁって。普通科とか音楽科とか関係なく、楽しんでくれたらいいって」
 頬を桃色に染めながら、饒舌に語る香穂子を金澤はただ黙って見つめていた。
「あ、でもその架け橋になれたら、とかそんな大それた事を考えているわけじゃないんですよ! ただ、知ろうと思えば知ることができる位置にいながらそれをしないのは勿体ないなって思っただけで。その人が思い願っていることからすると、私の思ってることなんてちっぽけなことだけど、少しだけでも力になれたらって。大体、まだ一生懸命楽譜を追って音を出すことしかできないし、先生がこの間言っていた私が持っている何かがなんなのかもわかっていないし。ただ………」
 そこで香穂子は少し言い淀んだ。
「ただ?」
 金澤はその先が聞きたくて、促す。
「ただ、少しだけ何かを掴んだような気がします」
 驚いた。
 香穂子は走り回っていただけではなかったようだ。既に何かを見つけかけている。
「そうか」
「はい」
 それきりで会話は終わってしまった。それ以上、かける言葉を見つけられなかったからだ。
 それからも香穂子は相変わらず走り回っていた。だが、走り回るばかりではなく、きちんと音色を響かせている。
 時折、練習室から漏れ聞こえてくる音色を、金澤は屋上で空を見つめながら聞く。
(こりゃあ、次のセレクションは荒れる、かもな)
 何しろ、また一人参加者が増えた。こちらはピアノの経験者。技量は普通科にしておくには勿体ないほどのもの。
 何が起こるか、わからない。


 予想したとおり、第二セレクションは荒れた。
 普通科に隠れていたピアニストはその情動的な力のある演奏で会場を黙らせた。
 そして、もう一人の普通科からの参加者である香穂子もまた大きな衝撃をもたらした。
 第一セレクションと比べると香穂子の技量は格段に上がっていたし、それは練習を聞いていた金澤も気がついていた。
 だが、それだけではなかった。
 香穂子が演奏をしている間中、金澤はその姿から目を離すことが出来なかった。
 正装で身を飾り、ステージの中央でヴァイオリンを奏でる香穂子は、第一セレクションとは全く違っていた。
 自分の演奏に自信がついたわけではないだろう。だが、香穂子は胸を張ってヴァイオリンと向き合っていた。彼女の指から紡ぎ出される音色が場内に広がっていく。決して上手いとは言えない。月森の演奏と比べるのはまだおこがましいほどだ。
 だが、香穂子の音色はどこまでも広がっていきそうだった。もっと聴いてみたいと、練習中の香穂子の音を聴いていた金澤にさえ、思わせるほどだった。
 弓を弦から離した後、一拍を置いて会場から拍手がわき上がる。拍手喝采とはいかないが、第一セレクションではおざなりとしか思えなかった拍手と違ってそこには熱が籠もっていた。
 金澤はその拍手の音で我に返った。今の今まで自分が演奏している香穂子に見とれていた。
(全く、年甲斐もなく………)
 首の後ろをもみほぐしながら、誰にも気づかれないような小さな吐息を漏らす。
 拍手を受けて、香穂子は深々とお辞儀をすると舞台の袖に引っ込んでいった。
 香穂子の姿が見えなくなると、金澤は座席の背もたれにゆっくりを身体を預けた。右隣の月森は沈黙を保っているが、内心何を思っているのだろう。少し気になって金澤は声をかけた。
「いいライバルになりそうだな」
 月森は鋭い目で金澤を見る。
(怖いっつーの………教師になんて目をするんだ)
「ライバルにはなりえません。ですが、彼女の演奏には確かに興味が沸いてきました。前回は散々でしたが、今回のは悪くない。表現力はあると思いますが、それを表現するための技術力がまだ足りていません。ですが、それはこれからの彼女次第でしょう」
 よく見ている。
 そして、月森の評価に金澤は満足する。
 なんだかんだ言って、月森も香穂子を意識しだしている。それは今回の彼女の演奏がそれだけ、人を惹きつけるものであったということに他ならない。実際、金澤の後ろに座っている生徒達も「良くなかった?」「次はもっと期待してもいいんじゃない?」など、前回では聞くことも出来なかった言葉を交わしている。
 香穂子はこれから更に練習を重ねていく。そして、近いうちに自分が持っているものに気がつくだろう。そうなったときに、香穂子の音色はどれほどの変化を見せるのか。


「お疲れさん」
 制服に着替えた香穂子は、今回は早くに出てきた。金澤は追い出しにかかるためにやってきたばかりのところである。
「先生」
「今日はまた頑張ってたなぁ。順位も上がったし。それに、いい音が出ていたな」
「本当ですか?」
 香穂子が顔を輝かせる。嬉しい誉め言葉だったようだ。
「だったら、あれで良かったんだ」
「何が」
「私、先生が前に言ったこと、ずっと考えながら弾いていたんですけど………ほら、何かを持っているって」
「ああ」
「何か少しだけ掴んだような気もしたけど、やっぱり考えてもわからなくて。だから考えるのをやめてみたんです。それで今回はとにかく弾いてみようって。私がヴァイオリンを持ったことで気づいたように、音楽って楽しいんだって、そういうのを普通科の人たちも気づいたらいいなって。だから、まずは自分が楽しんで弾いてみようって思ったんです。じゃあ、今の自分は音楽のどこが楽しいのかなって考えてみたら、同じ曲でも弾き方によって随分印象が変わることに気づいて、それをいろいろ試してみることなんです。ただ、いろいろ試しすぎて、セレクションに間に合わなかったから、中途半端な演奏になってしまって、それが心残りですけど。それでも、楽しかった。それが伝わったんなら、やって良かったなって思います」
 自分のためではなく、誰かに聴かせるために。
 それは、聴衆を意識した演奏をする柚木とも少し違う。
 今日のことを語る香穂子は生き生きとしていた。第一セレクション終了後に自分の不甲斐なさを感じていた時とは大きく変化している。
 金澤は自分の言葉を忘れて、香穂子を見つめていた。
 これから香穂子はまだ変わっていくだろう。
 香穂子は何かをもう殆ど掴んでいる。
 それは、誰かの為に演奏をするということ。
 他の参加者にそういう気持ちがないとは言わない。だが、これに関しては香穂子が抜きんでている。
 音楽を楽しんで欲しい。それが最初に香穂子に吹き込まれた願い。その願いのために香穂子は頑張ろうと思った。
 次にはそれを実行しようとした。願った誰かのため、それを他の人にも気づいて欲しいために。
 では、その次は?
 香穂子は誰のために、その音色を奏でるのか―――。
「先生?」
 下から覗き込まれて、金澤は長いこと物思いに耽っていたことに気がつく。
「何だ」
「いえ、何でもないですけど。何だかぼうっとしてたから………」
 まさか、香穂子のことをつらつらと考えていたとは言えない。代わりに近づいていた香穂子の額を指で弾く。
「いたっ」
 額を抑えて、今度は恨めしげな目で見上げてくる。
「何なんですか、もー」
「何なんだろうなぁ」
 しれっと返すと、香穂子は口を尖らせた。
「ほら、さっさと帰った帰った」
「はぁい。………それじゃあ、お疲れ様でした」
 まだ言いたいことはあったのだろう。不承不承、香穂子は金澤に背を向けて講堂の出口へ向かって歩き出した。
 香穂子の姿が廊下の角を曲がって見えなくなると、深く息を吐き出す。
 誰かのために奏でる音。その音色は人を惹きつける。
 今日の演奏だけで、未熟なあの演奏だけで、金澤は香穂子の音を忘れられなくなっている。これほどまでに、香穂子の音色に惹きつけられるなんて誰が予想できただろう。
 そして―――。
 その音色を響かせる香穂子から、もう目が離せそうにない。
(って、何考えてんだ、俺は)
 いつまでも香穂子が去っていったほうを向いていた身体を反転させる。
「あー、やだやだ。何を血迷ってるんだか」
 声に出すことで、今思っていたことを打ち消す。
 だが、それは完全に金澤の心の内から消去してしまうことは出来なかった。そのことに、金澤自身気がついていたが、今の金澤にはせいぜいそれに気づかないふりをすることしか出来なかった。
 いつか。
 いつかまた浮上してくるものだとわかっていても。
 それでも今はまだ認めるわけにはいかないから―――。

拍手[4回]






随分前に書いていたものです。随分前過ぎていつだかはっきりと覚えていないくらいです。多分、4年前くらい………(^_^;) 金やんとの話ですが、恋愛感情は一切無し。ちょっと特別に見始める、くらいでしょうか。お得意の淡泊話です。
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